2025/7/14

(結論の要約)
憲法第9条は、あくまで「国権」による戦争を禁止しているのであって、住民投票に基づく「民権」による戦争決定を直接禁じているわけではないと解釈できる。したがって、憲法を改正する必要はなく、主権の最終的権力者たる国民の意思決定に基づく措置は、憲法の精神に反するものではない。
第1 憲法9条下における軍事行動の肯定
日本国憲法第9条は、「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使」を放棄すると定めている。この条文の注目すべき点は、「国権の発動たる」という限定条件が付されていることである。すなわち、戦争や武力行使の禁止は、あくまで政府機関の統治権限としての戦争手段に限って制限を加えたものであり、主権者たる国民自身による直接的な意思表示や民権の行使までを制約する趣旨ではない解することができる。
ここで「国権」と「民権」を区別する必要がある。前者は立法・行政・司法といった統治権力であり、憲法9条がその行使形態を禁じるのは、戦前日本のような国家主導の侵略行為を防止するための制度設計である。これに対し「民権」とは、国民が持つ参政権や住民投票など、民主的意思形成過程への参加を保障する権利を指す。

憲法前文には、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」と明記されており、これはまさに国権の暴走への警告であると同時に、「主権が国民に存する」ことを宣言している。したがって、政府による戦争行為こそが憲法の禁止対象であり、国民の過半数による国民投票という厳格な手続に基づく意思表示については、むしろ国民主権原理によって正当化されうる。
仮にこの構成が形式論として退けられたとしても、全有権者の過半数を前提とする国民投票の結果は、憲法改正手続にも匹敵する重みを持つ。これを司法を司る裁判所が否定することは、民主主義の手続的正統性を損なうものである。戦争参加の是非をめぐる国民的熟議こそが、平和主義の本質的実現であり、政府に対する平和主義の抑制装置と、主権者による統治意思決定を混同すべきではない。
また、憲法66条に定められる「文民でなければならない」という条項の存在は、憲法制定当時、軍隊が解体され自衛隊も存在しなかったにもかかわらず、文民統制を明示したことから、現行憲法でも将来的な戦力保持を前提に設計された可能性を示唆する。この観点からも、憲法は戦争そのものを絶対的に否定するものではなく、その発動主体と手続に制限を課すものと解される。
さらに、日本国籍を持つ個人がイラクやアフガニスタンなど、海外の武力紛争に傭兵として参加している事例もある。政府はこれを黙認しており、民権としての戦闘参加は事実上許容されている。これもまた、憲法9条が国民や国民の意思決定を直接縛っていない証左である。
ところで、憲法24条における「婚姻は両性の本質的合意に基づいて」という表現が、「同性婚を禁じているものではない」と解釈される例がある。これは、「両性の合意による婚姻を保障しているが、同性間の婚姻を否定しているとは書かれていない」という構文解釈である。同様に、憲法9条において「国権による戦争は禁止」と記載されていても、「民意による戦争行為までが否定されているとは書かれていない」と解釈することは文理解釈上、成立しうる。
よって、国民投票に基づく軍事行動およびその戦力保持を憲法9条は禁止しておらず、憲法改正は不要である。
第2 憲法9条改正による国際騒乱に巻き込まれる可能性
CIAを統括するNSC(国家安全保障会議)議長であり、ハーバード大学教授でもあるジョセフ・ナイは、かつて「対日超党派報告書」において、尖閣諸島や台湾有事を契機とする日中間の軍事衝突について、次のようなシナリオを示している。すなわち、当初は米軍主導で戦い、その後徐々に米軍は戦争から手を引き、最終的には日中間の戦争と位置づけた上で、米国が仲裁者として介入し、尖閣周辺に存在する豊富な石油資源を間接的に支配・略奪するという構想である。そして、その第一段階として、日本に憲法9条の改正を促す方針が示され、これを民主党・共和党双方の上下院議員に共有したとされる。

このように、憲法改正を安易に行い、政府が迅速に軍事的判断を下せる体制を構築した場合、日本はこの種の大国間の謀略的状況に巻き込まれる危険性が高まる。実際、ウクライナではレンドリース法等武器支援の維持を条件に、トランプ政権が資源権益を手に入れようとした事例があり、アメリカの利益誘導による戦争の現実味は否定できない。
したがって、憲法9条を堅持しつつ、国民の意思決定を前面に出したプロセスを整備することこそが、このような国際的リスクから国家利益を守るために必要である。
第3 国民投票法の具体例
憲法の趣旨である国民主権および平和主義を堅持しつつ、安全保障上の緊急事態における迅速かつ合理的な意思決定を可能とするため、以下のような国民投票制度の整備が考えられる。
【国民投票法整備の一例】
以上の手続きを設けることで、国民の意思に基づく民主的統制を維持したまま、平和主義を損なうことなく、安全保障に必要な迅速かつ柔軟な対応を実現することができる。
第4 民主党小沢一郎の言論は整合性がないこと
民主党時代、小沢一郎は、2007年「世界」11月号において、国連決議に基づく平和維持活動であれば、たとえ武力行使を伴っても日本国憲法9条には違反しないと主張した。その根拠は、憲法9条が禁止しているのはあくまで国家間の戦争(いわば私戦)であり、国際社会全体の秩序維持を目的とした国連の軍事行動(いわば公戦)への参加はこれに該当しないとする点にある。
この見解は、日本国憲法の平和主義は国際秩序との協調を前提としており、国連の権威は国内法秩序より優越するという考え方に基づく。しかしながら、この解釈は、憲法前文が掲げる「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という趣旨、および「主権が国民に存する」という国民主権原理と整合しない。
いかなる名目であれ、武力行使の権限を国連という外部機関に委ねることは、主権者たる国民の権能を侵害し、憲法秩序に反するものである。
以上より、小沢一郎が唱えた「国連決議に基づく武力行使は憲法9条違反ではない」とする構想は、憲法前文および国民主権の趣旨に照らして妥当とはいえない。
第5 芦部説に対する批判
芦部信喜ら通説は、憲法9条にいう「国権の発動たる戦争」とは、国家機関たる政府が行う一切の武力行使を指すと解し、たとえ国民投票によって意思表示がなされた場合でも、これを実行に移すのは政府である以上、最終的には「国権の発動」として憲法9条の禁止範囲に含まれると考えている。
しかし、この考え方は、憲法前文および第1条に明示された国民主権原理を軽視している。憲法前文は、「政府は国民の厳粛な信託によるものであり、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と規定し、権力の最終的帰属主体は国民であることを宣言している。したがって、国民投票によって主権者たる国民が最終意思を表示し、それに基づき政府が機械的に執行する場合、それはもはや政府独自の「国権の発動」とは異質であり、「民権の発動」として評価すべきである。
芦部説は、国民投票という最高度の民主的正統性を備えた手続による決定であっても、政府の行為である以上「国権」とみなす。しかし、これでは国民主権の徹底を空洞化し、主権者による意思決定を政府の恣意的行為と同列に扱う結果となり、民意の最高表現である国民投票制度を否定するに等しい。
また、芦部説は憲法66条が「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」と定めている規定の矛盾について、正面から説明していない。もし軍事行動が未来永劫に渡り存在しないのであれば、66条はそもそも規定する意味を持たないはずである。憲法が文民統制を規定している以上、戦力保持や軍事行動の可能性を前提としていたと考えるのが自然であり、この観点からも芦部説の立論は不十分である。
国権による戦争と、民権による国家意思の発動とは峻別されるべきであり、民権に基づく戦争決定までを9条が禁止していると解する芦部説は、国民主権原理を軽視していると言わざるを得ない。
さらに、現代立憲主義における民主主義原理からすれば、国家の最終的意思は主権者たる国民に帰属し、政府はその手続的補助機関にすぎない。したがって、国民投票によって明示された意思に基づく軍事行動を、形式的に政府の行為であるからといって「国権の発動」とし、9条違反とするのは、国民主権および民主主義に対する無理解と言わざるを得ない。
結論として、芦部説は国民主権を誤解し、「国権」と「民権」の区別を曖昧にしたまま、政府による戦争と国民意思に基づく国家意思決定とを混同する誤謬を犯しており、憲法前文および国民主権原理に照らして妥当とはいえない。
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ノマグチ ショウ/38歳/男
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