2026/7/6

西へ向かう列車の中で、和馬は立っていた。
万能の始発駅では、いつものように座れた。だが、二つ三つと乗り換えるうちに座席はいつしか埋まり、いまは吊り革に掴まって、流れていく景色をただ見ている。
奇妙な気分だった。きのうまで、この「立ちっぱなし」こそが当たり前だと思っていた。万能のあの座れる特権を知ってしまった今は、立っていることのほうが、ひどく損をしている気がする。――たった一駅ぶんの座席。あれがどれほどの贈り物だったか。失ってみて、初めてわかる。
乗り換えを重ね、近鉄の特急に乗り、さらにローカル線へ。窓の外の山が、だんだんと深くなっていく。奈良県、吉野郡。日本の林業のふるさと、と呼ばれる土地。
小鹿野爺は言った。西へ飛べ、と。あすこの山は三百年、四百年、人が手を入れ続けてきた、と。
和馬は上着の内ポケットの上から、そっと胸を押さえた。そこには、薄いもう一台の携帯電話があった。街の誰も知らない、機関(きかん)との唯一の細い糸。きのうの夜、爺と別れたあと、その電話に短い文字が届いていた。
――よし。西だ。山守(やまもり)に、会え。
和馬は、その文面を何度も読み返した。
爺が「吉野へ飛べ」と言った、その数刻あとに。機関もまた、同じ西を指していた。
偶然だろうか。 爺はただの、街の物知りの隠居だ。なのに、なぜ機関と同じ場所を、同じ夜に指せるのか。
窓ガラスに映る自分の顔を、和馬は見つめた。答えは出なかった。ただ胸の奥に、小さな冷たい疑問符がひとつ灯った。
終着の駅で降り、迎えに来てくれた軽トラックに乗せてもらって、さらに山を奥へ奥へと分け入った。
吉野川の上流。 道路標識がひとつ過ぎていった。和馬はそれを目で追って――息を呑んだ。
〈川上村(かわかみむら)〉。
川上(かわかみ)。
心臓が、どくんと鳴った。
万能で流域連携の鍵を握りながら、それを潰そうとしている、あの長老。市臣の遺した「形」に執着する、生ける慣性。川上孝政。あの男と同じ名が、よりにもよって、この日本の林業発祥の地に刻まれている。
偶然だ。ただの地名の偶然だ。 そう自分に言い聞かせた。だが、ぞわりと首筋を撫でていった、あの感覚は消えなかった。万能の「川上」が、上流との連携をせき止めている。そして本物の「川上」――この上流の村こそが、眠った山を金に変える技の源だという。
まるで誰かが、和馬に見せようとしているかのようだった。 お前の街の壁の、本当の名前を。そして、その壁の向こう側にある答えを。
軽トラを降りると、男が待っていた。
六十がらみ。杣田より少し若いか。だが、佇まいは似ていた。山に長く向き合ってきた者だけが持つ、あの静かな揺るがなさ。
「高野(たかの)や」と、男は名乗った。「あんたが、東の街から来る、若いのんか」
「……はい。和馬と申します」和馬は頭を下げた。それから、ふと引っかかった。「あの。私が来ること、ご存じだったんですか」
「ああ」高野はこともなげに頷いた。「来る、と聞いとったわ。電話があってな」
「電話。――どなたから?」
「さあて」高野は薄く笑った。その目尻に、悪戯っぽい皺が寄った。「名乗らん爺さんでな。『東の山の、眠っとる街から、若いのを、ひとり、飛ばす。よう、見せたってくれ』と、それだけ言うて、切れよった。妙な爺さんや。せやけど――声に、聞き覚えが、あるような、ないような」
和馬は、何も言えなかった。
爺だ。間違いない。あの毛糸の帽子の老人が、このはるか西の山にまで、声を届かせている。たった一夜のあいだに。まるで――そう、まるで空を飛び越えるように。
鳩みてえに、あちこちの空を、覚えてるのさ。
爺の別れ際の言葉が、和馬の胸の奥で、もう一度羽ばたいた。
「来い。本物を見せたるわ」
高野について、山の斜面を登っていく。 そして、和馬は足を止めた。
森が、明るかった。
万能の、あの緑の砂漠とはまるで違った。木と木のあいだに、ちゃんと隙間がある。陽の光が幾筋も、林床までまっすぐに射し込んでいる。足元には、下草が青々と茂っている。そして――立っている杉が、どれもまっすぐで美しい。空へ向かって、定規で引いたように、すっと伸びている。
「きれいやろ」高野は誇らしげに言った。「これがな、手の入った山や」
「……同じ杉なんですか」和馬は思わず訊いた。「万能の山の杉と」
「同じ木や。育て方が違うんや」高野は、一本の幹を手のひらで撫でた。「ここの杉はな、苗の頃、一町歩――一ヘクタールに、一万本植えるんや。苗と苗の間が、たった一メートル。畑みたいに、ぎゅう詰めや」
「一万本……密植(みっしょく)、ですか」
「ほう。よう知っとるな、役所のわりに」高野が、片眉を上げた。
和馬は内心、ひやりとした。喋りすぎた。慌てて語尾を濁す。
「いや……本で、読んだことがあるくらいで」
「まあ、ええ」高野は続けた。「ぎゅう詰めに植えると、木は苦しがる。隣に負けまいと、横に枝を張る暇もなく、ただ上へ上へと急いで伸びよる。すると、どうなる」
「……まっすぐに、なる」
「そや。そんで、枝が出えへんから、節(ふし)がでけへん」高野はにやりとした。「せやけど、一万本ぜんぶは育てへん。果物の間引きと同じや。五年ごとに、出来の悪いやつから間引いていく。何十年もかけてな。最後の最後まで残った、選ばれた木だけが――百年杉に、二百年杉になるんや」
和馬は、そのまっすぐな木立を見上げた。
密に植え、何度も間引き、長く育てる。密植・多間伐(たかんばつ)・長伐期(ちょうばっき)。苦しめて、選び抜いて、時間を惜しまない。だからこそ生まれる、節ひとつない、まっすぐな美しい木。
「子や孫を、育てるのと同じや」高野は静かに言った。「植えたわしは、こいつが二百年杉になるのを、よう見いひん。わしの爺さんが植えた木を、いまわしが間引いとる。わしが植えた木を、見たこともないひ孫が伐るんや。――気の遠くなる話や。せやけど、それを五百年、絶やさんと回してきた。それが、川上村の吉野林業や」
五百年。
和馬の頭に、杣田の苦い声がよみがえった。倅は二人とも、街を出た。この種の知恵は、俺と一緒に消える――。
万能では、たった一代で途切れかけている、その鎖を。この村は、五百年繋いできた。
「せやけど、不思議やろ」と、高野は歩きながら言った。「これだけ手間をかけて、ええ木を育てて――それで儲かるんか、と」
和馬の心を見透かしたような問いだった。きのう、ゆきが純喫茶で放った問いと同じだった。誰が、銭を出す。
「外国の安い木が、どっさり入ってくる時代に」高野は続けた。「うちの木は高い。手間がかかっとるんやから、当たり前や。安売り競争をしたら、ぜったいに負ける。――せやからな、うちは最初から、その勝負をせえへん」
「しない?」
「安いほうやのうて、ええほうで、いちばんを取る」高野は足を止め、和馬を振り返った。「考えてみい。秀吉の大阪城。伏見城。あれの御殿の柱は、ここの木や。江戸の昔から、いちばんええ木は吉野、と決まっとった。値段で選ばれたんと、ちゃう。これやないと、あかん、と選ばれたんや」
和馬の胸の奥で、何かがかちりと噛み合った。
安いから買ってください――では、ない。 これじゃなきゃ駄目だ、と言わせる。
駅の話で、ゆきが言った言葉と同じだった。「安いから来てください」は惨めだ。誰も誇りを持てない。だが、「この街には、座って通える価値がある」――これは堂々と、高く売れる。
「いちばんわかりやすいのが、樽(たる)や」高野は谷のほうへ、顎をしゃくった。「樽丸(たるまる)、ってな。酒を運ぶための、樽の板や。昔は、酒も醤油も味噌も、ぜんぶ樽で運んだ。――その樽に、節のある木を使うと、どうなる思う」
「……節の、ところから」
「漏れるんや。液が」高野は頷いた。「せやから、絶対に節のない木が要る。漏れたら、商売にならへんからな。そこで白羽の矢が立ったのが、節のない吉野の杉や。樽丸のために、わざわざ伐る時期を、二十年から八十年、百年に延ばした。長伐期は、樽が育てたんや」
「木が、酒を運んだ」
「酒の味まで決めた。木の香りが移るからな」高野の声に、わずかな寂しさが滲んだ。「もっとも――今は、酒も瓶になった。樽で運ぶ酒なんぞ、ほとんどあらへん。樽丸を作れる職人は、この村にもう、数えるほどしか残っとらん」
和馬は、その谷のほうを見た。
時代が変わり、技が消えていく。万能で見たのと同じ風景が、ここにもあった。だが――。
「でもな、若いの」高野は、ふっと顔を上げた。その目に、また火が灯っていた。「樽の中身が、酒から変わっただけかもしれん。海の向こうでは、酒は木の樽で、何年も寝かせて、値打ちを上げよる。ワインやの、ウイスキーやの、ブランデーやのは、樽の木で味が決まる。――節のない、ええ木を、香りのええ木を、求めとる連中は、世界にまだ、なんぼでもおるんや」
樽。 酒を寝かせ、味を決める、木の器。
和馬の頭の、ずっと奥のほうで、まだ形にならない新しい何かが、ちりりと火花を散らした。石灰質の土。世界水準の。――まだ、それが何なのかはわからなかった。だが確かに、何かが繋がろうとしていた。
山を下り、高野の家で茶をふるまわれた。
「ひとつ、訊いていいですか」と、和馬は湯呑みを置いて言った。「万能の山は――持ち主がわからない山が、ほとんどなんです。爺さん婆さんが亡くなって、子は都会で、相続したことすら知らない。境界の杭も、土に埋もれてる。どうやって手を入れればいいのか」
「ああ、それな」高野はこともなげに言った。「うちにも、昔からある話や。せやから――山守(やまもり)がおるんや」
「山守」
「山の持ち主と、手入れする者を分けるんや」高野は、湯呑みを両手で包んだ。「山主(やまぬし)は、山を持っとるだけでええ。都会に住んどっても、かまへん。その山をまるごと、山守に預ける。山守は、持ち主に代わって、何十年、何代にもわたって、その山を見る。間引き、道をつけ、火事を防ぎ、伐り時を見極める。――伐って、売れたら、その何分かを報酬にもらうんや」
「持ち主がいなくても」和馬の声が、思わず上ずった。「山守がいれば、山は回る」
「そういうことや。財産をまるごと、預ける相手やぞ。生半可な信頼では、でけへん。せやけど、その信頼を何百年も繋いできたから、吉野の山は死なへんかった」
和馬の中で、いくつもの欠片が、一本の線に繋がりはじめた。
万能の眠った金――森林環境譲与税。原沢が見つけた。 万能の眠った山――持ち主のわからん、七割五分。杣田が守ってきた。 そして、いま。その二つを回す、技と仕組み。
密植・多間伐・長伐期で、安売りに堕ちず、いちばんいい木を育てる。 山守の仕組みで、持ち主のわからない山をまるごと預かって、束ねる。 国の制度にも、市町村が持ち主に代わって、山の管理を引き受ける新しい仕掛けが、もうある。それを山守の知恵と組み合わせれば――。
眠った金で、山守を雇い、眠った山を起こす。
絵の半分が、できた。
「ただな」と、和馬は湯呑みを見つめた。「ひとつ、わからないことがあります」
「言うてみい」
「いい木ができたとして」和馬は顔を上げた。「それを――誰が買うんですか。安い外材に勝てないから、みんな山を捨てたんでしょう。いくらいい木を育てても、買う人がいなきゃ、また同じことの繰り返しだ」
高野はしばらく、和馬を見ていた。 それから、にやりと笑って立ち上がった。
「ええ問いや。――よっしゃ。もう一か所、見せたるわ」
軽トラに乗せられて、向かったのは、村の中学校だった。
もう放課後で、校庭に生徒の姿はまばらだった。高野は慣れた様子で校舎に上がり、ひとつの教室の扉を開けた。
和馬は、その中の机を見て――息を止めた。
木の机だった。
どこにでもある、スチールの脚。だが、その天板だけが、淡い飴色の木でできていた。三十ほどの机が、夕日を受けて、しっとりと光っている。一枚一枚、木目が微妙に違う。使い込まれて、角の取れたあたたかい色。
「天板だけ、地元の檜(ひのき)でな」高野は、一枚の机を手のひらで撫でた。「脚は丈夫な金物や。木は傷もつくし、割れもする。せやから、丈夫なところは金物に任せて、毎日肌で触れるところだけ、木にしたんや」
「これを……生徒が?」
「組み立てるんや。自分でな」高野の声がやわらいだ。「入学した春、新一年生が自分の手でこの天板を、脚にねじ留めする。自分で作った机や。愛着が違う。三年間、この机で勉強して――そんで」
高野はひとつの天板の裏側を、和馬に見せた。
そこには、油性ペンでたくさんの文字が書き込まれていた。寄せ書きだった。
『卒業おめでとう』『ずっと友だち』『野球部、最高だった』――幼いまっすぐな字が、隙間なく踊っている。
「卒業のとき、生徒はこの天板だけ外して持って帰るんや」高野は言った。「三年間、自分を支えた板を寄せ書きにして、家に持ち帰る。本棚にするやつもおる。机に戻すやつもおる。――脚はリユースや。来年の春、また新一年生が新しい天板を組み立てる。せやから毎年、新しい天板がこの村の檜で作られて、売れるんや」
和馬の頭の中で、何かが音を立てて回りはじめた。
毎年新しい一年生の数だけ、地元の木で天板が作られ、買われる。それは――途切れることのない、地元の木の需要だった。安い外材と競う必要のない、確実な出口。
「これが出口、ですか」和馬は呟いた。「いくらいい木を作っても、買う人がいなきゃ続かない。でも――自分の街の学校や役所が、地元の木を使えば」
「需要を、自分で作れるんや」高野が頷いた。「外の市場で、安売りに巻き込まれる前に、まず足元で使い切るんや。山の木が、子どもの机になる。子どもが、その木に触れて育つ。卒業して街を出ても、その板を抱えていく。――木が人を、街に結びつける。これが儲けの話だけとちゃうってのが、わかるか」
「もうひとつ、おもろい話をしたろか」
高野は、教室の木の天板をとんとんと叩いた。
「この木の机にしてから、この学校はな――風邪で学校を休む子が減ったんや」
「……風邪、ですか」和馬は眉を寄せた。「木と風邪が、関係するんですか」
「するんやなあ、これが」高野は可笑しそうに言った。「わしも最初は、眉唾やと思うとった。せやけど、県の研究所がちゃんと調べとる。木――特に、杉や檜の出す香りの成分にはな、菌やウイルスを抑える働きがある。それだけとちゃう」
高野は窓の桟(さん)に指を滑らせた。
「木っちゅうのは、生きとるみたいに湿気を吸うたり吐いたりする。空気が乾けば、吐いて湿らせる。じめじめしたら、吸うてからっとさせる。――で、インフルエンザのウイルスっちゅうのは、乾いた空気が大好物や。冬のからからの教室で、元気に飛び回りよる。せやけど、木が空気をしっとり保っとると――ウイルスが弱るんや」
「だから……学級閉鎖が」
「減るんや」高野は頷いた。「調べによったら、木をふんだんに使うた校舎は、コンクリートの校舎より、インフルエンザの学級閉鎖が半分以下や、なんて話もある。子どもの集中力も上がる。木の床は、足が冷えへんからな。眠気が減る。倦怠感が減る。――机だけで、これや。椅子も壁も天井も、木にしたら、どうなる思う」
和馬は、答えられなかった。 ただ頭の中で、いくつもの線が火花を散らして、繋がっていくのを感じていた。
地元の木で、学校を木質化する。 すると――山に金が回る。眠った木が、需要を得る。 そして、その同じ一手で、子どもが風邪をひきにくくなる。集中して学べる。木に囲まれて育つ。
一石で、二鳥。 いや、三鳥にも四鳥にもなる手だった。
林業が生き返る。 子どもの健康が守られる。 病気になってから慌てる代わりに、なる前に防ぐ。 そして、子どもは自分の街の山の木を、抱きしめて大人になる。
――対処療法ではなく。予防。 ――そして、お金と健康と人の繋がりを育てる、学び舎。
和馬の胸の奥で、彼がこの街に来てからずっと背負ってきた使命の、いくつかがいま、この一枚の木の天板の上でひとつに溶け合った。
「驚いた顔を、しとるな」高野が笑った。「役所の人間にしては、ずいぶん目の色を変えよる」
「……すみません」和馬は深く頭を下げた。「ありがとうございます。探していた出口が――いま、見えた気がします」
日が、暮れていた。
駅まで送る軽トラの中で、高野はぽつりと言った。
「あんたの街にも、廃校になりかけの学校があるんやろ」
和馬は、はっとした。大森小学校。あの最上階のパーティーで、肴にされていた、地域コミュニティの最後の砦。
「……なぜ、それを」
「爺さんが言うとった」高野は前を向いたまま言った。「『その若いのは、学校を、ひとつ、背負っとる』とな。――妙な爺さんや。会うたこともないのに、あんたのことを、わしよりよう知っとる」
和馬は、窓の外の暮れていく山を見た。
爺は、和馬の使命まで知っている。機関の人間でなければ、知るはずのないことまで。
「ひとつ、訊いていいですか」和馬は声を落とした。「あなたに電話してきた、その爺さん。――最後に、なんて言いました」
高野はしばらく、黙っていた。 それから、ハンドルを切りながら、ぽつりと言った。
「『その若いのは、自分が、なぜ、ここへ来たのか、まだ、半分しか、わかっとらん。だが、いずれ、ぜんぶ、わかる』――とな」
和馬の背を、また、あの冷たいものが撫でた。
帰りの列車は、もう暗かった。
膝の上には、高野が持たせてくれた、一枚の薄い檜の板があった。生徒たちが机にするのと、同じ材だという。鼻を近づけると、清冽な香りが、すっと胸に抜けていった。乾いた車内の空気が、その一枚の板の周りだけ、しっとりと和らいでいる気がした。
胸ポケットの薄い電話が、一度震えた。
機関からの、短い文字。
――収穫は。
和馬はしばらく、その問いを見つめてから、ゆっくりと指を動かした。
〈山守を見ました。眠った山の、起こし方がわかりました。そして――出口も〉
送信して、画面を消す。
そして、和馬は思った。爺は、なぜ機関と同じ西を指せたのか。高野に電話をかけたのは、本当に爺なのか。それとも――爺の口を借りた、誰かなのか。
あの老人は、ただ街を知り尽くした隠居ではない。 どこか遠くの高い空から、必要な答えだけを選んで、この街へ運んでくる。まるで一羽の、伝書鳩のように。
わからないことが、また、ひとつ増えた。 だが、和馬は不思議と、恐れてはいなかった。
その鳩が運んでくるものは、いつも――この街が、もう一度息を吹き返すための種(たね)ばかりだったからだ。
数日後の夜。駅裏の純喫茶、いちばん奥のテーブル。
和馬が吉野の話を語り終えると、テーブルには、しばらく熱を帯びた沈黙が落ちた。
「つまり、こういうことか」原沢が、ノートに図を描きながら確かめた。「眠ってる譲与税の金で、山守を雇う。山守が、持ち主のわからん山をまるごと預かって、起こす。育てた錦川材は、安売りしない。まず――自分の街の学校や役所や駅を、木質化するのに使う」
「そうだ」と、和馬は頷いた。「出口を外に探すんじゃない。まず足元で使い切る。学校の机を、椅子を、壁を、天井を、地元の木にする。そうすれば、山に確実な需要が生まれる。――そして」
「子どもが、風邪をひかなくなる」と、シスコが身を乗り出した。その目が、母親の目になっていた。「ねえ、それ、ほんとなの? 学級閉鎖が、減るって」
「県の研究所が調べてる」和馬は答えた。「木の香りに、菌を抑える力がある。木が空気の乾きを防いで、インフルエンザのウイルスを弱らせる。机だけじゃない。教室ぜんぶを木にすれば、もっと効く」
「……それ、ママ友百人にいますぐ言いたい」シスコがこぶしを握った。「『うちの街の学校は、地元の木で子どもが風邪をひきにくい』――そんなの、引っ越してでも入れたい親が、いくらでもいるよ」
「待ちな」ゆきが、長い脚を組み替えた。金庫番の鋭い目が光る。「金庫番として、確かめるよ。それ、ぜんぶ――新しい税金を取らずに、できるんだね?」
「できる」原沢が即答した。「森林環境譲与税は、もともとそのための金だ。山を整える。人を育てる。そして――木を使う。公共施設の木質化は、ど真ん中の使い道だ。眠ってた金を起こすだけでいい。新しい負担は、要らない」
「なら、文句はない」ゆきがにやりとした。「眠った金で、眠った山を起こして、子どもの命を守って、おまけに街の看板にする。――一石で、何鳥だい、これは」
「四鳥だ」と、まさひろが、煙草に火をつけながら低く笑った。「林業。健康。教育。それから――街の誇り」
テーブルが、静かに沸いた。
和馬は、その輪を見渡しながら、胸の奥で思った。
病気になってから医者に走るのではなく、病気にならない暮らしを設計する。お金に追われるのではなく、お金の回り方を知る。木に、人に、囲まれて育つ。――この街に来た日から、自分が背負ってきた、いくつもの使命。その輪郭が、いま、一枚の木の天板の上で、はっきりと像を結びはじめていた。
「錦川材サミットの出口は、これだ」和馬は、ナプキンの川の絵の、いちばん下流に、ひとつの四角を描き足した。学校、と書く。「上流で山を起こし、万能で木を挽き、下流の――まず、自分たちの学校で使う。木が子どもを育てる。子どもが木を抱えて巣立つ。これが、錦川の新しい流れだ」
会計を済ませ、店を出ると、夜の空気が、ひやりと頬を撫でた。
街灯の下に、毛糸の帽子の小柄な影が待っていた。いつものように。
「いい絵に、なってきたな」小鹿野爺はにっと笑った。聞いていたらしい。「山を起こして、子どもを守る。市臣の爺さんも、川上(かわかみ)の爺さんも、本当はそれをやりたかったはずさ」
「川上さんも?」和馬は思わず訊き返した。あの、慣性の壁が。
「ああ」爺は、夜空を見上げた。「あの男もな、若い頃は、この街の子どもの未来を、本気で考えとった。……ただ、守り方を間違えただけよ」
その一言が、和馬の胸に、小さな棘のように刺さって残った。守り方を間違えた。それは――まだ間に合う、という意味にも聞こえた。
「さて」爺は、もう背を向けていた。「山の話は、ここまでだ。山を起こす絵はできた。だが――木は、土から生える。次は、その土の話だ」
「土?」
「あすこの山の土が、何を育てられるか。それを、いちばんよく知っとる男が、この街にひとりいる」爺の声が、夜気にすっと沈んでいく。「明日、その店を訪ねてみな。古い種屋(たねや)だ。――こんどは、正真正銘、種(たね)の話さ」
毛糸の帽子が、夜に溶けていく。
「木の種の次は、野菜の種、ですか」和馬が、その背に声を投げた。
爺は、足を止めた。 だが、振り返らなかった。
「土が変われば、育つものも変わる。――この街の土を、いちど握ってみな。なんで、こんなにさらさらで軽いのか。なんで、水がすうっと抜けちまうのか。考えたこと、あるか」
そう言い残して、影は、夜に消えた。
和馬は、檜の薄板をぎゅっと握りしめた。木の香りが、もう一度胸を満たす。
眠った山を起こす技は、手に入れた。その木の出口も、見えた。 次は――その木が根を張る、足元のあの奇妙に乾いた土だ。
座って、池平(いけだいら)。 たった一駅の座席から始まった旅は、川を遡り、山を越え、そしていま、足元の土の中へと潜ろうとしていた。
(第6話 了)
音声解説
次話予告――第7話「伝説のタネ職人」。爺が和馬に指し示したのは、空でも、山でもなく、足元の「土」だった。なぜ万能の土は、こんなにも乾いて軽いのか。万能の山の土を抱いた大地が、本当に育てようとしているものとは――。街に古くからある一軒の種屋。その店主・野渕種苗の親父との出会いが、眠れる「紅金(くれないきん)」への、扉を開ける。
この記事をシェアする
ノグチ カズヒコ/51歳/男
ホーム>政党・政治家>野口 和彦 (ノグチ カズヒコ)>小説『スイッチバック』 第6話 伝書鳩