2026/7/6

翌朝、和馬は街の北へ車を走らせていた。
駅前を抜け、川沿いの道を上流へ。家並みが途切れ、ガードレールの向こうに、錦川(にしきがわ)の浅瀬が見えはじめる。水は夏でも、骨が軋むほど冷たいのだと、子どもの頃に聞いた覚えがあった。その川をさらに遡る。やがて、視界の左右が緑で塞がれた。
山だ。
万能市の、七割五分。
数字としては、何度も聞いていた。市の面積の四分の三が、山林。だが、こうしてその懐に入り込んでみると、数字よりも先に息が詰まった。道の両側に、杉と檜が隙間なく、まっすぐに空へ向かって突き立っている。下生えのない、暗い林床。日が、ほとんど落ちてこない。
――緑の砂漠だ。
和馬はハンドルを握りながら、そう思った。豊かに見えて、その実、何も棲んでいない。間伐されないまま、植えられた本数のまま、互いの陽を奪い合って、ひょろりと細く、ただ立っているだけの木。戦後、国の旗振りで一斉に植えられ、そして、いつの間にか、誰も手を入れなくなった人工林。
この暗い森が、かつて、この街をいちばん最初に富ませた。
信じがたい話だった。
小鹿野爺に言われた住所は、カーナビには出てこなかった。川がいちばん細くなるあたり、橋を渡って二つ目の分かれ道を右、とだけ。言われたとおりに進むと、道幅が軽トラ一台分まで狭まり、その突き当たりに、それはあった。
古い、製材所だった。
錆びたトタンの大屋根。軒下に、丸太が苔むして積まれている。看板の文字は、もう半分以上消えていた。かろうじて読めたのは――〈杣田(そまだ)林業〉。
車を降りると、木の匂いが押し寄せてきた。
乾いた木と、湿った木。鋸で挽かれた断面の、樹脂の匂い。それは、和馬の記憶のずっと奥のほうを、不意にこじ開けた。幼い頃、たしかに嗅いだことのある匂い。この街がまだ、何かで満ちていた頃の。
「来たか」
声のしたほうを見ると、作業場の暗がりに、ひとりの老人が立っていた。
六十は、とうに過ぎているだろう。だが、背は山の木のようにまっすぐで、首も腕も、革みたいに灼けて太い。作業着の胸に、削りくずが白く散っていた。その足元で、小鹿野爺が毛糸の帽子を被ったまま、丸太に腰かけて、にやにやとこちらを見ている。
「爺さんから聞いてる。市役所の若いのが来るとな」杣田と呼ばれたその男は、和馬を上から下まで、値踏みするように見た。「種を知りたいんだと?」
「種、ですか」
和馬は戸惑った。きのうの夜、爺は確かに言った。種を、いちばんよく知る男に会わせてやる、と。和馬は勝手に、畑の野菜の話だと思い込んでいた。これから街の糧を探すのなら、まずは農だろう、と。
「畑の種だと思ってたか」杣田は、和馬の顔を見て、ふん、と鼻で笑った。「みんな、そう言う。だがな、この街がいちばん最初に蒔いた種は、野菜じゃねえ。木だ」
杣田は顎で、作業場の奥を示した。
ついていくと、裏手に、小さな畑のような一画が広がっていた。だが、植わっているのは野菜ではなかった。膝の高さほどの、細い緑の苗木が、整然と、何百本も並んでいる。
「苗圃(びょうほ)だ」と、杣田は言った。「木の赤ん坊を育てる畑よ。種を採って、蒔いて、二年三年かけて、ここまでにする。これを山に植えて、四十年、五十年、手をかけて、ようやく一本の材木になる」
和馬はしゃがんで、その細い苗の一本に指で触れた。やわらかい、新しい葉だった。
「四十年」と、和馬は繰り返した。
「気の長え話さ。植えた人間は、伐るところを見ちゃいねえ。爺さんの植えた木を、孫が伐る。孫の植えた木を、見たこともねえ曾孫が伐る。――そういう商売だった」杣田の声が、ふと低くなった。「だった、ってのが、味噌でな」
作業場に戻ると、杣田は湯を沸かし、欠けた湯呑みに茶を淹れてくれた。小鹿野爺は、丸太に座ったまま、何も言わずに、二人のやりとりをただ聞いている。
「この街の名は、もとはな、この製材の音から付いたって説がある」杣田は茶をすすった。「山ぜんたいが、鋸の音で、ぶうん、ぶうん、と鳴っとった。万の能ある街――万能。眉唾だがな。だが、それくらい木で食ってた街だったのは、本当だ」
和馬は、湯呑みを両手で包んだ。
「錦川材(にしきがわざい)、と言ってな」杣田は、外の細い川のほうへ目をやった。「あの川を、筏に組んで流したんだ。上流の山で伐った材木を、川下へ、川下へ。下流の街で、それを挽いて、磨いて、江戸へ――いや、今で言や、都心へ運んだ。家を建てる、いい材木として、高く売れた。それが、この街の最初の金よ」
木金(もくきん)。
封筒の言葉が、和馬の頭の奥で、静かに鳴った。
「その金で、家を建てた男がいる」杣田は続けた。「市臣(いちおみ)栄貞。聞いたことくらい、あるだろう」
「……初代の、市長」
「財閥、と呼ばれた」杣田の目が、わずかに細くなった。「山を買い、川を整え、製材所を束ねた。上流から下流まで、ひとつの流れで、木を金に変える仕組みをこさえた男だ。この街の骨格を作った。――駅の、あの妙な造りも、あの人の差し金だって、年寄りは言う」
スイッチバック。
和馬の鼓動が、一拍速くなった。あの封筒の主が、最後に辿り着いた、ひとつの答え。鍵は、スイッチバックにある。市臣栄貞という名が、こんなところで、また出てきた。
「なぜ、あんな造りに?」
「さあな」杣田は肩をすくめた。「俺は木屋だ。レールのことは知らん。ただ――あの人は、まっすぐが嫌いだったらしい。効率だの、近道だのを、信用しなかった、と」
まっすぐが、嫌いだった。 和馬は、その一言を胸の奥に、そっと畳んでしまった。
「で、だ」
茶を飲み干すと、杣田の声が変わった。誇りの色がすうっと退いて、代わりに、苦いものが滲んだ。
「その、木で食ってた街が、なんで今、こうなったか」杣田は立ち上がり、作業場の、止まったままの帯鋸(おびのこ)に、節くれだった手を置いた。「外材だよ。安い、外国の木。船で、どっさり入ってくる。同じ太さの柱が、うちの三分の一の値で買える。家を建てる連中が、安いほうを選ぶのは、当たり前だ。誰も、責められやしねえ」
帯鋸は、刃に薄く錆を浮かせていた。もう、長く回っていないのだ。
「山の木は、伐っても、運び出す金にもならねえ。だから、誰も伐らねえ。植えたまま、放っとく。手入れの要る人工林を、ほったらかしにすりゃ、どうなる」杣田は、窓の外の暗い山を、顎でしゃくった。「あの、緑の砂漠だ。陽が入らねえ。下草が生えねえ。雨が降りゃ、痩せた土ごと、ずるずる崩れる。花粉だけは、いっちょまえに撒き散らす」
和馬は、ここへ来る道で見た、あの林床を思い出した。日の落ちてこない、暗い、死んだような森を。
「うちの山は、まだましなほうさ。俺が意地で、手を入れてるからな」杣田は、ふっと自嘲した。「だが、よその山は、もう、誰の山かもわからん。爺さん婆さんが死んで、子は都会だ。山なんざ、相続したことすら知らねえ。境界の杭も、とうに土に埋もれた。――持ち主のわからん山が、この街にどれだけあると思う」
和馬は、答えられなかった。
「俺が死ねば、この製材所は終いだ」杣田は静かに言った。怒りでも、嘆きでもない。ただ、事実を置くような口調だった。「倅は二人とも、街を出た。継げ、とは言わなかった。こんな、儲からねえ商売を、押しつけられるかよ。――この苗圃の種も、俺が最後だ。どの斜面に、どの木を植えりゃいいか。何年で、どう育つか。それを知ってる頭が、俺と一緒に消える」
種を、いちばんよく知る男。
爺の言葉の意味が、和馬の胸に、ようやく重く落ちてきた。これは、最後の一人の話なのだ。この街がいちばん最初に蒔いた種を、まだ覚えている、最後の一人。
「爺さんよ」杣田が、丸木――ではなく、小鹿野爺のほうを振り返った。「なんで、こんな若いのをよこした。役所が、何かしてくれるとでも?」
小鹿野爺は、にっと笑った。それから、初めて口を開いた。
「するさ」
たった一言だった。だが、その確信に満ちた響きに、杣田が、わずかに目を見張った。
その夜、駅裏の純喫茶。いつもの、いちばん奥のテーブル。
和馬が、昼間に見た山の話を終えると、テーブルには、しばらく沈黙が落ちた。
「……重い話だね」と、最初に口を開いたのは、シスコだった。「でも、正直さ。あたしらママ友のあいだじゃ、山なんて、話題にも上らないよ。花粉症の季節に、恨むくらいで」
「それが、答えなんだ」と、和馬は言った。「七割五分が、誰の関心にも上っていない。あって当たり前の風景は、語られなければ、無いのと同じだ。駅と、同じだよ」
「で?」
ゆきが、長い脚を組み替えた。金庫番の目が、まっすぐ和馬を見ている。
「いつもの問いを、繰り返すよ、坊や。きれいな話だ。死にかけの製材所のおじいさん。最後の種。――泣ける。でも、それを、誰の金で立て直すんだい? 山に手を入れるにも、人を雇うにも、木を運び出すにも、金がいる。儲からないから、みんな手を引いたんだろう? その儲からない山に、誰が銭を出す?」
核心の問いだった。
その時、それまで黙ってノートパソコンを叩いていた原沢が、ふっと顔を上げた。眼鏡の奥の目が、奇妙な光を帯びていた。
「……金は、あるぞ」
全員が、原沢を見た。
「は?」と、丸木が、間の抜けた声を出した。
「金は、あるんだ。それも、山に使うための金が、もう毎年、この街に降ってきてる」原沢は、パソコンの画面を、くるりと皆のほうへ向けた。「市の財政資料を、ずっと洗ってた。
役所で嗅ぎつけたやつの続きだ。――妙な基金(ききん)を見つけた。残高が、年々ただ積み上がってるだけの基金を」
「基金?」和馬が、身を乗り出した。
「森林環境譲与税(しんりんかんきょうじょうよぜい)」原沢は、その長い名を、一字ずつ区切るように言った。「数年前から、国が全国の市町村に配ってる金だ。元手は、俺たちが住民税に、ちょっとずつ上乗せして払ってる。山を整備するための金だ。間伐でも、人材を育てるでも、木を使う事業でも、いい。山のためなら、わりと自由に使える」
「それを、万能市ももらってる、と」
「毎年な。ところが――」原沢は、画面の一本の折れ線を指した。右肩上がりに、ただ上がっていくだけのグラフ。「ほとんど使ってない。降ってきた金を、ただこの基金に積んでるだけだ。年々、残高が膨らんでいく。山は、目の前で死にかけてるのに、だ」
テーブルが、静まり返った。
「……なんで」と、シスコが、呆れたように言った。「お金が、あるのに?」
「使い方が、わからねえからさ」と、答えたのは、和馬だった。
皆が、和馬を見た。
その口調が、あまりに滑らかだったからだ。まるで、それをずっと前から知っていたかのように。和馬は一瞬、しまったと思い、慌てて声に戸惑いの色を足した。
「……いや。たぶん、そうなんだと思う。これは、全国のどこでも起きてる話のはずだ。山を整備しろって金だけ、先に降ってきた。でも、それをどう使えばいいか、計画もなけりゃ、わかる職員もいない。林業なんてもう何十年も、誰もやってない街がほとんどだ。だから――とりあえず貯めとく。全国で配られた金の半分近くが、使われずに眠ってるって話もあるくらいだ」
「半分?!」丸木が、素っ頓狂な声をあげた。「もったいねえ! 蜂の巣だって、放っときゃ、でかくなって、手に負えなくなるんだぜ。金も寝かしときゃ、ただの死に金じゃねえか」
「まさに、それだ」と、和馬は言った。
彼の頭の中で、昼間の暗い山と原沢の見つけた眠った金が、一本の線で繋がっていく。
金がないんじゃない。 金は、ある。出口がないだけだ。
「森(もり)市長は、いつも言う。金がないから諦めろ、と」和馬の声に、静かな熱が灯った。「廃校も子育ても福祉も、金がないの一言で削ってきた。――なのにその同じ役所の別の引き出しの中で、山に使うための金が使われないまま、何年も眠ってる。これが、この街の本当の姿だ。貧しいんじゃない。豊かさの使い方を忘れただけだ」
「だが」と、まさひろが、腕を組んだまま低く言った。「金があったって、万能の山ぜんぶは直せねえだろ。七割五分だぜ。しかも、持ち主のわからん山ばっかりだっておまえ、昼間言ってたじゃねえか」
鋭い突っ込みだった。
「ああ。だから――万能だけじゃ無理なんだ」和馬は頷いた。「ここからが肝心なところだ」
彼はナプキンを一枚取りペンで、一本の曲がりくねった線を引いた。川だ。
「思い出してくれ。錦川材は、どうやって金になった?」和馬は線の上のほうを指した。「上流の山で、木を伐る。それを――」ペンを、線に沿って下へ滑らせる。「川下へ流す。下流の街で、挽いて、磨いて、都心へ売る。上流と下流が、ひとつの流れで繋がってた。それが、市臣栄貞の作った仕組みだ」
「昔の話だろ」
「今も、同じだよ」和馬は、ペンを止めた。「この錦川の上流には、いくつもの小さな町や村がある。山ばっかりで、人が減って、木を伐る金もない町が。――万能は、そのちょうど真ん中だ。上流の深い山と。下流の都心の消費地。その結節点(けっせつてん)に立ってる」
原沢が、はっと顔を上げた。先を読んだのだ。
「……流域で、組むのか」
「そうだ」和馬の目が光った。「上流の町は、山と木を持ってる。でも、金と出口がない。下流の街――いや、都心の自治体は、ビルやマンションばっかりで、山がない。でも、人と金と木を使いたい需要がある。そして、万能には――」
彼はナプキンの真ん中を、とんと叩いた。
「川がある。製材の技がある。座って都心へ運べる線路がある。そして、杣田さんっていう、最後の種を知る男がいる」
テーブルの空気が、ぴんと張りつめた。
「ばらばらに眠ってる森林環境譲与税を、一本の流れに束ねるんだ」和馬は続けた。「上流の町が、山を整える。万能が、その木を集めて、挽いて、ブランドにする。下流の都心が、その木を、ビルや、学校や、家具に使う。――川上(かわかみ)から、川下(かわしも)まで、もう一度、ひとつの流れで、木を金に変える。錦川材を、令和にもういっぺん流すんだ」
「……錦川材サミット」と、ゆきが、ぽつりと呟いた。
「いいですね、それ」シスコが、ぱっと顔を輝かせた。「響きがいい。『流域で、街を、つなぐ』。山の町もうちも都会も、ぜんぶが得をする。誰も損しない。――これなら、ママ友に自慢できる」
「金庫番として聞くがね」ゆきがにやりとした。「悪くない。眠ってる公金を起こすってのは、新しい銭を無理に作るより、よっぽど堅い。あたしの、純粋な民間の金は、まだ出さないよ。だが――その流れが本物だってわかったら、いつでも乗ってやる」
話が熱を帯びはじめた、その時だった。
原沢が、ふと画面に目を落とし、表情を固くした。
「……ひとつ言っとく」彼は、声を落とした。「このサミットってやつ。市が音頭を取って近隣の町に声をかけて、初めて回る話だ。流域連携の計画を市が作らなきゃならん。――で、その計画ってのは」
「議会の承認が、いる」と、和馬が引き取った。
「ああ」
純喫茶の静かな空気の中に、あの、最上階のパーティーの記憶が、すうっと忍び込んできた。シャンパングラスを傾けていた重鎮たち。そして、その中でただ一人、グラスに口もつけず座っていた男。
川上(かわかみ)孝政。
万能市の財界トップと讃えられる、生ける長老。土木、測量、設計、建築――この街の、あらゆる「造る」仕事を束ねる男。そして、議会をその手のひらに乗せている男。
和馬は、ふとおかしな符合に気づいた。
川上――上流の町と組む。 その流れを束ねる鍵を握っているのが、よりにもよって、〈川上〉という名の男だ。
偶然のはずだった。だが和馬には、それがただの偶然とは思えなかった。この街では、すべてがあの古い駅の造りのように、誰かの意志でねじ曲げられている気がした。
「川上の旦那が、首を縦に振るかね」まさひろが、煙草に火をつけた。「あの爺さん、新しいことが大嫌いだ。市臣のこさえた、この街の『形』を変えるな、ってのが口癖よ。流域で新しい仕組みを作る、なんて言ったら――真っ先に潰しにくるぜ」
「だろうな」和馬は、静かに答えた。「でも――おかしいだろう。市臣栄貞が、本当に作りたかったのは川上から川下まで、ひとつに繋がった木の流れだったはずだ。それをもう一度やろうって話なんだ。なのに、市臣の意志を継ぐ、と言う男がそれを潰しにくる」
彼は冷めた珈琲に映る、自分の顔を見た。
「『形』だけを守ってるんだ。なぜ、その形を作ったのか――その『理由』を、忘れたまま」
守ることに慣れすぎた。 守るための形だけが残り、なぜ守ったのかを、誰も思い出せなくなった。
封筒のあの一行が、また現実の輪郭をなぞった。
会計を済ませ店を出ると、夜の空気がひやりと頬を撫でた。
街灯の下に、毛糸の帽子の小柄な影が待っていた。いつものように。
「いい絵を、描いたな」小鹿野爺は、にっと笑った。聞いていたらしい。「川をもういっぺん流す。市臣の爺さんが聞いたら泣いて喜ぶぜ」
「でも、絵だけです」和馬は苦笑した。「描き方はわかった。でも肝心の――山をどう立て直すのか。眠った木をどうやって、もういっぺん金に変えるのか。その技がこの街には、もうない。杣田さん一人の頭の中にしか」
「だろうな」爺はこともなげに頷いた。それから、ふと夜空を見上げた。星が山の上に、いくつも瞬いている。
「西へ飛びな」
「西?」
「奈良の吉野(よしの)だ」爺の声が、夜気にすっと沈んでいく。「あすこの山は三百年、四百年人が手を入れ続けてきた。植える、育てる、伐る、また植える――その気の遠くなるような輪を何代も、絶やさずに回してきた。日本でいちばん、山を金に変える技を知ってる連中だ」
「三百年……」
「行って見てこい。本物の手入れされた山ってのが、どんな顔をしてるか。木をどう金に変えるか。――そいつを、その目に焼きつけてくりゃあ、杣田の頭の中身が、ようやくちゃんとわかる」
爺は、もう背を向けていた。
「眠ってる金は、原沢の坊主が見つけた。眠ってる山は、杣田が守ってる。あとは――それを回す技だ」毛糸の帽子が、夜に溶けていく。「西の山に、ある」
「待ってください」和馬は、その背に声を投げた。「あなたは――なぜ、そんなことまで知ってるんですか。吉野のことまで」
爺は足を止めた。 だが振り返らなかった。
「年寄りはな。鳩(はと)みてえに、あちこちの空を覚えてるのさ」
そう言い残して、影は夜に消えた。
鳩。
和馬は、その奇妙な一言を胸の奥に、また一つ畳んでしまった。この老人はただの物知りの隠居ではない。まるでどこか遠くから、必要な答えだけを、この街へ運んでくる誰かのように。
車に戻りエンジンをかけると、和馬はもう一度、北の暗い山の稜線を見上げた。
昼間に見た、あの緑の砂漠。 日の落ちてこない、死んだような森。
だが、いまはその黒い影が、違って見えた。
あれは、死んでいるのではない。眠っているのだ。手入れの手を待ったまま。蒔かれた種が、四十年、五十年、誰にも伐られずただ待ち続けている。
眠った山。眠った金。そして――その二つを、もう一度ひとつの流れに繋ぐ技は、はるか西の、三百年の山にある。
座って、池平(いけだいら)。 たった一駅の座席から始まった、街の七割五分を起こす旅は、いま川を遡り、山を越え、奈良の、深い杉木立へと続こうとしていた。
和馬はアクセルを踏んだ。 帯鋸が、もう一度回りだす日を確かに予感しながら。
(第5話 了)
音声解説
次話予告――第6話「伝書鳩」。小鹿野爺が和馬に告げた行き先は、三百年、山を金に変え続けた奈良・吉野。なぜ爺は、見たこともない遠い山の答えを知っているのか。万能の眠れる森を起こす技を求めて、和馬は西へ飛ぶ。そして、爺の正体に繋がる、最初の符牒が――。
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
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