2026/6/30

アパートの蛍光灯は、つけても部屋の隅々までは届かなかった。
和馬は、押し入れのいちばん奥から、黄ばんだ封筒を取り出した。三日と、半日。開けずにきた。だが、あの小柄な老人の声が、まだ耳の裏に貼りついていた。
――開けな。今夜のうちに、開けるんだ。
封を、指で破った。
中から出てきたのは、便箋が三枚と、一枚の、古い写真だった。
写真には、見覚えのある駅のホームが写っていた。万能駅。だが、ずっと古い。木造の駅舎、煙を吐く汽車、ホームの先で行き止まりになる、あの引き上げ線。そして、その前に立つ、和装の、背筋のまっすぐな男。裏に、かすれた鉛筆で、ひとことだけ。
『市臣栄貞 街を、まっすぐにしなかった人』
便箋を、開いた。万年筆の、几帳面な字だった。
『スイッチバックの真実を知る者へ。
この街は、貧しさで沈むのではない。むしろ逆だ。 万能は、都心にこれほど近く、これほど豊かな山と水を持ち、しかも――あの線路のおかげで、座って都会へ通える、稀有な始発の街だ。本来なら、人があふれ返っていなければおかしい。 なのに、なぜ沈むのか。
百年前、市臣栄貞という男が、効率の一本道を拒んで、この街の心臓を守った。その選択が、今もこの街を、ひそかに生かしている。だが、人は、守ることに慣れすぎた。守るための形だけが残り、なぜ守ったのかを、誰も思い出せなくなった。 守る者たちは、いつしか一つの輪になった。市長を、議会を、土を掘り起こす者たちを、すべて飲み込んだ、固い輪に。その輪が回り続けるかぎり、この街の七割五分は――山も、農地も――眠ったままだ。
私には、もう時間がない。 輪を断つのではない。輪の、進む向きを、変えるのだ。 憎むな。誰も、悪人ではない。みな、この街を愛して、道を誤っただけだ。
次の者へ、託す。』
署名は、なかった。
和馬は、便箋を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
始発の街。座って、都会へ。 ――そんなふうに、あのスイッチバックを考えたことは、一度もなかった。子どもの頃から、ただの無駄なレールだと、素通りしてきた、あの線路が。
胸の奥で、何かが、静かに音を立てて噛み合った。
和馬は、立ち上がった。 押し入れの、衣装ケースの、さらに奥。段ボールをどけた壁際に、薄いアルミのケースが、ガムテープで固定してある。引き剥がし、暗証番号を回す。指は、迷わなかった。
中には、もう一台の、武骨なスマートフォン。顔写真の入った、誰にも見せられない身分証。そして、表紙に「取扱注意」と刷られた、薄い冊子。
――和馬は、敗けて故郷へ逃げ帰った、ただの若者ではなかった。
いや。半分は、本当だった。 東京で、すり減って、何もかも失ったのは、嘘ではない。底まで落ちて、夜行バスの窓に額をつけて、もう消えてしまいたいと思った夜も、本物だった。 その底で、彼らは、和馬を見つけた。
国の、ある部署。表向きは、地方創生を支援する、目立たない一機関。彼らは、全国で芽吹いた成功事例を集め、それを必要とする土地へ、ひそかに人を送り込む。和馬に与えられた任地は――よりにもよって、自分が捨てた、故郷だった。
冊子の見開きに、任務が、四つ、簡潔に記されていた。 眠る山を、再び金に変えること。年に一億しか集まらないふるさと納税を、百億に育てること。そして――最後の二行に、和馬の指は吸い寄せられた。
『お金・健康・人間関係に悩まない仕組みを、この街に創ること。 対処から、予防へ。街の在り方そのものを、反転させること。』
反転。 膝の上の便箋が、同じ言葉で、和馬を見上げていた。輪の、進む向きを、変えるのだ、と。
死んだ老人は、機関とは何の関係もない。だが、まったく別の場所から、まったく同じ結論に、たどり着いていた。この街を救う鍵は、スイッチバックにある、と。
和馬は、武骨なスマホを握り、登録のない番号へ、短く発信した。
二度の呼び出しで、相手は出た。男とも女ともつかない、感情のない声。
「予定より、接触が早いな」と、その声は言った。「初日から、派手に動いたそうじゃないか。庁舎で、蜂騒ぎを起こした連中と、組んだのか」
和馬は、息を呑んだ。もう、把握されている。
「議事録を、抜きました」と、和馬は答えた。「『財政非常事態』は、たぶん、作り物です。それを証明できれば、廃校を止める足がかりになる」
「そのために、君を入れた」声は、淡々と続けた。「街の連中とは、うまくやれ。ただし、正体は明かすな。君は、何もしないのが取り柄の、地域振興課の新人だ。誰にとっても、無害な男でいろ」
「……ひとつ、報告が」和馬は、迷ったが、言った。「三日前、駅で、老人が死にました。俺に、封筒を遺して。スイッチバックの真実を知る者へ、と。中身は――この街の本当の眠りについて、書かれていました。機関が、俺に解かせようとしているのと、同じことが」
声が、止まった。
一拍。二拍。電話の向こうで、感情のないはずの相手が、わずかに、息を詰めた気配があった。
「……その封筒のことは」やがて、声は、慎重に言った。「こちらの、想定にない」
通話は、それで切れた。
和馬は、暗い部屋で、消えたスマホの画面を見つめた。 機関でさえ、知らなかった。この街には、誰かが――和馬より、ずっと早く、たったひとりで、同じ真実に手を伸ばしていた人間がいた。
その人は、もう、いない。 託された荷物だけが、和馬のコートの内側で、まだ、かすかに重い。
翌朝、和馬は、約束の喫茶店に呼び出された。
駅裏の、古びた純喫茶。いちばん奥のテーブルで、原沢が、ノートパソコンと、盗み出した大学ノートを並べ、目を血走らせていた。コーヒーは、三杯目だという。
「ひと晩で、洗った」原沢は、挨拶も抜きに切り出した。「結論から言う。この街は、健全だ。むしろ、健全すぎる」
画面には、グラフがいくつも開かれていた。
「経常収支比率も、実質公債費比率も、近隣のどの市より、ずっといい。借金は少なく、貯金はある。普通に考えれば、学校の一つや二つ、畳む必要なんか、どこにもない」原沢は、大学ノートの、走り書きの一行を、指で叩いた。「だが、この原本には、表に出てない決定が残ってた。非常事態を宣言すれば、削れるものが、ぜんぶ正当化できる。学校も、子育ての金も。――『削るために、危機をでっち上げた』んだ。順序が、逆なんだよ」
「なんで、そんなことを」和馬は、低く訊いた。
「金の、流れだ」原沢の眼鏡が、光った。「削った予算は、消えるわけじゃない。別の場所へ、回る。道路や、大型開発へ。それを受注する連中と、その連中に飼われた議員へ、な。妨害の声が、いつも執行部じゃなく、議会から上がるのは、そういうことだ」
和馬の脳裏に、昨夜の最上階が浮かんだ。グラスにも口をつけず、窓を背に座っていた、あの和装の男。「街がきちんと前に進んどるのを見るのが、酒よりうまい」と言った、川上。
守る者たちは、いつしか一つの輪になった――便箋の一行が、現実の輪郭を、くっきりと帯びた。
その時、店の扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、スーツの男が二人。値の張りそうな仕立て。一人が、店主に何か尋ね、店内をゆっくりと見回す。和馬たちのテーブルで、視線が、ほんの一瞬、止まった。
原沢が、さりげなくノートパソコンの蓋を閉じた。
男たちは、何も言わず、コーヒーも頼まず、出ていった。だが、去り際、奥のテーブルへ、もう一度だけ、目をくれた。
「……来たね」原沢が、低くつぶやいた。「川上の、見回りだ。昨日の蜂騒ぎで、誰かが輪に手を突っ込んだと、もう気づいてる」
和馬は、冷めたコーヒーに映る、自分の顔を見た。 無害な、新人でいろ、と機関は言った。だが、もう、後戻りはできない。封筒を開けた時点で。いや――母校の名を、シャンパンの肴にされた、あの夜から。
窓の外、線路の向こうで、朝の始発が、ゆっくりとホームへ入り、一度、後ろへ下がった。
まっすぐ進むことより、この街を選んだ、百年前の反転。 その意味を取り戻す番が、本当に、自分たちに回ってきたのだと、和馬は、静かに腹を決めた。
(第3話 了)
音声解説
次話予告――第4話「座って、池平」。誰もが「無駄」と呼んできたスイッチバック。その行き止まりのレールにこそ、この街が眠りから覚める、最初の鍵が隠されていた。和馬が見つけた、街いちばんの"強み"とは。
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
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