2026/6/30

「まもなく、万能(ばんのう)、万能、終点です。お忘れ物のないようご注意ください。本日も奥武蔵鉄道をご利用いただきまして、誠に有難うございました」
聞き心地の良い自動音声が、がらんとした終電の車内に、自然と耳に流れ込んで来る。ホームが近づくと、ガタンガタンと電車が左右に強く揺れ、レールを切り替えてホームへ滑り込んだ。
電車はいつも行き止まりに向かい、一旦止まってから、来た方向へ出発する。平地にありながら、列車が後ろ向きに走り出す、全国的にも珍しい運行方法。和馬(かずま)にとっては、子どもの頃から、変わらぬ当たり前の風景だった。
スイッチバック。
まっすぐ進めばいいものを、わざわざ街の真ん中に頭から突っ込んで、お辞儀でもするみたいに向きを変えて出ていく。なぜそんな造りなのか、考えたこともなかった。この街で生まれ育った、十八年。ただの一度も。
だが――東京で、七年。すり減って、ほとんど何も持たずに戻ってきた今夜は、その線路が、なぜか自分自身に見えて仕方がなかった。前へ進んでいたはずが、気づけば、逆向きに走らされている。
明日から、市役所勤めだ。郷里に、ひとつだけ空いていた椅子。それが、敗けて帰ってきた男に残された、ぎりぎりの居場所だった。――敗け犬に、こんな都合よく椅子が空いているものか。ふと、そんな考えが頭をかすめたが、和馬は、考えるのをやめた。今夜は、ただ、疲れていた。
窓に映る自分の顔の向こうを、見慣れた闇が流れていく。手の中のスマホには、昼間に見た市の広報が、まだ開いたままだった。
『大森(おおもり)小学校 来年度末をもって閉校』
和馬の、母校だった。
あの校庭の桜も、給食のにおいも、まだ覚えている。覚えているのに、自分はとっくにこの街を見捨てて出ていった人間だ。今さら胸が痛むなんて、虫が良すぎる。そう思おうとして、うまくいかなかった。
中学は、とうに廃校になっていた。小学校まで消えれば、あの地区から子どもの声は、完全に消える。街がひとつ、静かに沈んでいく――その実感だけが、妙にくっきりと胸に残った。
列車がホームに滑り込み、扉が開く。降りた乗客は、和馬ひとりきりだった。
改札へ向かう足が、なぜか止まる。
ホームの端――終電が向きを変えていく、あの引き上げ線のほうに、人影が見えた気がした。
こんな時間に、誰が。
近づいて、息を呑んだ。
線路際のコンクリートに、老人がひとり、倒れ込んでいた。
「……っ、大丈夫ですか!」
駆け寄って抱き起こす。痩せた体は驚くほど軽く、けれど指先だけは万力のように力強く、和馬の手首を掴んだ。
「……来た、か」
しわがれた声が、確かにそう言った。まるで、ずっとここで誰かを待っていたみたいに。
「待ってて、いま救急車――」
「いい」老人は首を振った。「……時間がない。あんたのほうが、よっぽど、ない」
意味がわからなかった。だが老人の目は、闇の中で奇妙なほど澄んでいて、和馬を真正面から見ていた。値踏みするのでも、すがるのでもない。ただ、託す目だった。
骨ばった手が、懐から一通の封筒を引っ張り出す。古い、黄ばんだ封筒。表に、にじんだ万年筆の文字。
『スイッチバックの真実を知る者へ』
その封筒の上に、もう一つ。手のひらに収まるほどの、小さな旧式の録音機が握らされた。
「……この街はな、まだ、救える」老人の声が、急に遠くなる。「みんな……間違っちゃ、いねえんだ。誰も、悪く……ない。ただ、向きを……変える者が、いなかっただけで……」
「向きを? あの、あなた、誰なんですか。なんで俺に――」
「大森の、坊主だろう」
心臓が、跳ねた。
なぜ、それを。この老人とは、会ったことすらないのに。
「先に、聞け……レコーダーは、じき、消える……あいつが、そういう、仕掛けに、しやがった……」老人の指が、ゆっくりとほどけていく。「……頼んだ。今度は……あんたらの、番だ……」
その手から、力が抜けた。
和馬の腕の中で、老人は、静かに目を閉じた。まるで、ようやく重い荷物を下ろせた人みたいに、その顔はどこか、安らかだった。
「……っ、おい、おじいさん! おじいさん!」
返事はない。夜のホームに、和馬の声だけが、むなしく反響した。
手の中で、ジ、と小さな音がした。
録音機だ。勝手に再生がはじまっている。さっきの老人とは別の、もっと若い、けれど芯のある声が、ノイズの向こうから流れ出した。
『……これを聞いているということは、私はもう、この真実を渡しきれなかったということだ。……万能の街が、いま、ゆっくりと沈んでいくのを、君も感じているはずだ。誰のせいでもない。むしろ逆だ。みんな、必死に街を守ろうとして……その守り方そのものが、百年かけて、足枷に変わってしまった……』
画面の隅で、再生時間を示すバーが、後ろから少しずつ削れていく。聞いた端から、音声が消えていく。本当に、自動で消える仕掛けだった。
『鍵は、スイッチバックだ。あの線路には、市臣栄貞(いちおみ ひでさだ)が命がけで守った、街の本当の――』
ザザッ、とノイズが走り、音が途切れた。
再生バーは、もう半分も残っていない。和馬は思わず録音機を耳に押し当てた。
『……眠っているんだ。この街の、七割五分が。山が、農地が。それを解き放つ鍵を、私は――』
プツリ。
音は、完全に消えた。
残ったのは、無音の録音機と、黄ばんだ封筒と、腕の中で冷たくなっていく老人の体だけ。
和馬は、自分が今、何に巻き込まれたのか、まるでわからなかった。
震える指で、スマホを取り出す。一一九。三つの数字を押すだけのことが、やけに遠かった。
呼び出し音を聞きながら――自分でもわからないまま、和馬は、黄ばんだ封筒を、そっとコートの内側へ滑り込ませていた。誰にも見せてはいけない気がした。理由はない。ただ、事切れる間際の、あの老人の目が、そう言っていた気がした。
「……はい、消防です。火事ですか、救急ですか」
夜勤の、落ち着いた声。和馬は、震える声で場所を告げる。万能駅の、ホームの端。引き上げ線の、すぐそば。人が、倒れていて――もう、息をして、いません、と。
告げながら、和馬の目は、ホームの先へ吸い寄せられていた。終電が向きを変えていく、あの行き止まりの引き上げ線へ。
なぜ、この人は、会ったこともない俺を「大森の坊主」と知っていたのか。 市臣栄貞という名は、いったい、誰なのか。 眠っているという、この街の、七割五分とは。
答えを失くした録音機みたいに、問いだけが、胸の奥でからまわりしていた。
子どもの頃から、ただ素通りしてきた、無駄な、街の癖みたいな線路。 それが今夜、初めて、何か言いたげに、そこにあった。
和馬は、その夜まだ知らない。
この古ぼけた線路の行き止まりこそが、沈みかけたこの街を、丸ごと逆向きに走らせる――壮大な大逆転(スイッチバック)の、最初のプラットホームになるということを。
(第1話 了)
音声解説
次話予告――第2話「消えた議事録と、最上階のパーティー」。市長が祝杯をあげる夜、その最上階の本当の主は別にいる。大森小学校の運命を変える一冊のノートを巡って、チーム万能が、いま動き出す。そして和馬は、この街でただ一人、あの晩の死者を知る老人と出会う。
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ノグチ カズヒコ/51歳/男
ホーム>政党・政治家>野口 和彦 (ノグチ カズヒコ)>小説『スイッチバック』 第1話 反転のプラットホーム