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野口 和彦 ブログ

小説『スイッチバック』 第2話 消えた議事録と、最上階のパーティー

2026/6/30

あの夜から、三日が過ぎた。

 老人は、終電後のホームで倒れた身元不明の行き倒れ、として静かに処理された。新聞の片隅にも載らなかった。和馬がコートの内側に滑り込ませた封筒のことも、手の中で勝手に消えた録音機のことも、この街の誰ひとり、知らない。

 和馬は、何事もなかった顔をして、万能市役所の新人職員になった。

 古い庁舎は、廊下を歩くたびに床がきしんだ。配属先の地域振興課は、窓際に万年係長が一人、あとは判で押したように同じ書類を回すだけの部署だった。「うちは、何もしないのが仕事だからね」と先輩は笑った。冗談ではないらしかった。

 封筒は、まだ開けていない。アパートの押し入れの、いちばん奥。開けてしまえば、後戻りできない気がした。だが、あの老人の最後の目が――「今度は、あんたらの番だ」という、しわがれた声が――三日経っても、耳の奥にこびりついて離れなかった。

 あんたら、と老人は言った。俺、ではなく。  まるで、和馬の知らないところに、もう仲間がいるみたいに。

 その晩、和馬は残業を言いつけられて、ひとり庁舎に残っていた。気づけば、窓の外はとっぷり暮れている。コピー機の音だけが響く廊下を、湯のみを片手に歩いていて――ふと、足が止まった。

 吹き抜けの天井の、ずっと上。

 最上階だけが、煌々と灯っていた。

 六階の特別会議室。ふだんは滅多に使われないその部屋から、笑い声と、グラスの触れ合う澄んだ音が、こぼれ落ちてくる。和馬は階段の手すりに身を寄せ、そっと上を見上げた。

 扉が半分開いている。スーツの男たちが、シャンパングラスを掲げていた。中央で満面の笑みを浮かべているのは、テレビで見たことのある顔――森誠一郎市長だった。

「いやはや、ようやくですな。長年の懸案が、これで片づく」

 誰かが言った。森市長が鷹揚にうなずく。

「大森小学校の件は、来月の本会議で正式決定だ。財政非常事態だ、やむを得まい。子供が減ってるんだ、学校を一つ畳むのは、これは英断だよ、英断」

 和馬の指が、湯のみを強く握った。

 母校だ。あの校庭の桜が、給食のにおいが――それを肴に、シャンパンが鳴っている。

「市長の、ご決断あればこそ」 「いやいや、わたしなど」

 へつらう議員たちの輪の、いちばん奥。  窓を背に、ひとりだけ座ったまま、グラスにも口をつけずにいる老人がいた。

 仕立てのいい和装。背筋は伸び、表情は動かない。誰も、その人にだけは軽口を叩かなかった。森市長でさえ、ときおりちらりと、伺いを立てるようにそちらを見る。

 部屋の主は、はしゃいでいる市長ではない。あの、微動だにしない老人だ。和馬は、理屈ではなく、空気でそれを悟った。

「川上さん」と、議員のひとりが恭しく声をかけた。「川上さんも、一杯くらい」

 川上、と呼ばれた老人は、ようやく薄く笑った。

「わしは、街がきちんと前に進んどるのを見るのが、酒よりうまい」

 低い、しわのない声だった。穏やかなのに、部屋の温度が一段下がった気がした。

 和馬は、息を殺してその場を離れようとした。  ――その時だった。

「うわっ、と。すんません、すんません」

 階段の下から、間延びした声がした。

 見下ろすと、防護服を着た男が、軽トラのキーをじゃらつかせながら、のっそりと上がってくる。胸に『丸木蜂駆除サービス』の刺繍。網付きの帽子を小脇に抱え、顔は陽に焼けて、人懐っこい笑みが浮かんでいる。

「いやね、通報あったんすよ。六階の天井裏に、スズメバチがでっかい巣を作ってるって。今夜中にやっちまわねえと、明日パーティーどころじゃねえですからねえ」

「こんな時間に……?」和馬は思わず訊いた。

「蜂はね、夜が勝負なんすよ」男はにっこり笑った。「昼間は働きバチが飛び回ってて手がつけられねえ。みんなが巣に帰って、寝静まった夜こそ、一網打尽。――人間の組織だって、おんなじでしょ?」

 その言葉に、なぜか妙な含みを感じて、和馬は男の顔を見直した。

 男――丸木は、片目をつぶってみせた。

「兄さん、新人さん? ちょうどいい。ちょっと、手ぇ貸してくんねえかな」

 断る理由を探す前に、和馬の腕は、もう引っ張られていた。

 連れていかれたのは、五階の、空調設備室だった。

 薄暗い機械室に、すでに三人の男女がいた。

 ノートパソコンを膝に載せ、眼鏡の奥で目を光らせている、神経質そうな男。床に這わせたケーブルを睨みながら、「電気帳簿はね、嘘をつかないんだ。嘘をつくのは、それを書く人間だけだ」と、誰にともなくつぶやいている。

「原沢さん、配線いけます?」と丸木。 「五分くれ。この庁舎の電気系統、昭和の設計で逆に分かりやすい」

 その隣で、ツナギの上に作業ベルトを巻いた、目つきの鋭い男が、壁の点検口をドライバーで外していた。指の動きが、職人のそれだった。

「まさひろ、点検口は?」 「開いた。六階の議長室まで、ダクトで一本。子供なら通れる」 「俺ら、子供じゃねえぞ」 「だから痩せろっつってんだ、丸木」

 軽口の応酬。だがその裏で、二人の手はいっときも止まらない。

 そして、機械室の隅。  パイプ椅子に脚を組んで座り、長い髪を後ろで一つに束ねた人物が、スマホ片手にこちらを見ていた。仕立てのいいジャケット。指には、控えめだが本物の輝きを放つ指輪。

「で、その坊やは?」と、その人――ゆきが、和馬を顎で示した。声は低く、艶があり、男とも女ともつかない凄みがあった。「丸木、また拾い食いかい。素人を一人増やすたびに、足がつくリスクが上がるんだよ」

「いやでも、こいつ、市役所の中の人っすよ」と丸木。「現場に内側の人間がいるって、デカいでしょ」

 ゆきの目が、すっと細くなる。値踏みするような視線が、和馬の爪先から頭のてっぺんまでを一往復した。

「……顔は、悪くないね。度胸は?」

「ない、です」和馬は正直に答えた。「けど――上で何が話されてたか、聞きました。あの人たちが、何を肴に乾杯してたか」

「ふぅん?」

「大森小学校です。俺の、母校だ」

 機械室の空気が、ほんの少し、変わった。

「……あんた、嫌いなんだね。あの乾杯が」ゆきは小さく笑った。「いいよ。嫌いってのは、いちばん信用できる。金で買えないからね」

 その時、機械室の扉が細く開いて、最後の一人が滑り込んできた。

 エコバッグを肩にかけた、化粧っ気のない女性。三十代半ばだろうか、生活感が服を着て歩いているような風情で、しかし目だけが、異様に油断なく光っていた。

「お待たせ。子供、ばあちゃんに預けてきた」女性――シスコは、エコバッグから何かを取り出した。「はい、これ。三階の警備、今夜は委託のバイト二人だけ。一人は彼女と電話中、もう一人はトイレで動画。十一時の巡回まで、四十分は空く」

「相変わらず、情報が早ぇな、シスコ」 「ママ友ネットワークを舐めんな。この街の本当の通信網は、PTAのグループLINEだよ」

 和馬は、ぽかんとして、その五人を見回した。

 蜂駆除職人。データに取り憑かれた男。職人気質の何でも屋。凄みのある金庫番。そして、生活感の化け物。

 ばらばらだ。共通点なんて、何ひとつない。なのに――この機械室の中だけ、空気の密度が違った。役所の、何もしないのが仕事の課とは、まるで逆の。

「あの」和馬は、おずおずと訊いた。「みなさん、いったい、何を……」

「議事録だよ」と、原沢がパソコンから顔も上げずに言った。「先月の、非公開の臨時委員会。表に出てる議事録は、きれいに清書されてる。でも、原本がある。手書きの、走り書きの残った原本がね。そこに何が書かれてるかで――この街の財政が、本当に『非常事態』なのか、それとも誰かがそう言いたいだけなのかが、はっきりする」

「それが、六階の議長室の金庫に?」

「ご名答」まさひろが、ダクトの蓋を持ち上げた。「今夜、上は全員パーティー。金庫番が留守の、年に一度のチャンスってわけだ」

「丸木の蜂は?」

「目眩ましだよ」ゆきが立ち上がった。「天井裏に煙を焚いて、火災報知器の一歩手前まで持っていく。『スズメバチ駆除中につき、六階は立ち入り禁止』――この札一枚で、誰も近づけなくなる。蜂ってのはね、人間がいちばん理屈抜きで逃げ出すもんなのさ」

 丸木が、網付きの帽子を、ぽんと頭に乗せた。

「蜂はね、刺すために飛ぶんじゃねえ。巣を、守るために飛ぶんすよ」彼は、にっと笑った。「俺たちと、おんなじでね」

 ――それから先の四十分を、和馬は、生涯忘れないだろうと思った。

 丸木が天井裏に消え、ほどなく六階に「ブゥン」という地鳴りのような羽音が(録音だった)響きわたると、パーティーは悲鳴とともに半分崩れた。議員たちがグラスを置いて廊下へなだれ出る。森市長が「だ、誰か、誰か業者を呼べ!」と裏返った声を上げる。その混乱の隙を、まさひろがダクトを這い、原沢が遠隔で金庫の電子錠を黙らせ、シスコが警備の死角を秒単位で読み上げる。

 和馬の役目は、たった一つだった。  新人職員として、堂々と廊下を歩き、「設備点検です」と札を立て、議長室の前に立つこと。誰も、入ったばかりの新人の顔など知らない。怪しまれるはずもない。それが、何より強い隠れ蓑だった。

 走り書きの残った、古びた大学ノート一冊が、まさひろの手から、和馬のコートの内側へ――三日前と同じ場所へ、滑り込んだ。

 全員が、何食わぬ顔で散っていった。誰ひとり、走らなかった。走る者がいちばん怪しい、と全員が知っていた。

 和馬が裏口から夜気の中へ出たとき、心臓は、まだ早鐘を打っていた。

 冷えた空気を、肺いっぱいに吸い込む。庁舎の最上階は、まだ騒がしい。蜂に追われた大人たちが、まだ右往左往している。その滑稽な灯りを見上げて、和馬は、なぜか泣きたいような、笑いたいような、奇妙な気持ちになった。

「――いい顔に、なったじゃねえか」

 すぐ後ろで、声がした。

 振り返ると、街灯の届かない植え込みの陰に、小柄な年寄りがひとり、立っていた。腰の曲がった老人で、毛糸の帽子を目深にかぶっている。

 いつから、そこにいたのか。気配が、まるでなかった。

「あ、あなたは……」

「初めて会った人間の顔とは、思えねえだろう」老人は、皺だらけの顔をくしゃりとさせて笑った。「わしも、お前さんを、ずいぶん前から知っとる気がするよ。あいつが、よく話しとったからな」

「あいつ……?」

 和馬の背に、冷たいものが走った。

「三日前の晩。ホームで、お前さんに荷物を渡した、ばかがいたろう」老人の声が、ふっと湿った。「あいつとは、長い付き合いでなあ。最後に何を渡すか、誰に渡すか――ずっと、迷っとった。だが、お前さんに会って、決めたらしい。よかったよ。あいつの、見立ては正しかった」

 和馬は、言葉を失った。  あの夜のことを、知っている。封筒のことも、録音機のことも。なのに、この老人が何者なのかは、まるで見当がつかない。

「あんた、誰なんだ」

「わしか」

 老人は、答えずに、和馬のコートの胸元――ノートと封筒の隠された、その膨らみを、皺の寄った目で見やった。

「お前さん、今夜、蜂の巣をつついたな」

 その声から、急に笑いが消えた。

「あの議事録は、ただの紙切れじゃねえ。あれは、この街を百年回してきた、ある"輪っか"の、最初のほつれだ。お前さんたちは今夜、それを引っ張っちまった」老人は、ゆっくりと庁舎を見上げた。「川上のドンは、明日にはもう、気づくだろうよ。誰かが、輪の中に手を突っ込んできた、とな」

「川上……さっきの、あの……」

「坊主」老人は、和馬の問いを遮った。皺の奥の目が、街灯のない闇の中で、奇妙なほど澄んで光っていた。

「お前さん、まだ封筒を開けとらんな?」

 心臓が、跳ねた。

 なぜ、それを。

「開けな。今夜のうちに、開けるんだ」老人は、もう背を向けて、夜の街へ歩き出していた。「あの中身を知れば――お前さんは、もう、ただの新人職員には、戻れねえ」

「待っ……名前くらい、教えてくれよ!」

 老人は、振り返らなかった。ただ、片手を軽く挙げて、闇の向こうから、しわがれた声だけを残した。

「この街じゃ、みんな、小鹿野(おがの)の爺さんって呼ぶな」

 その背中が、夜に溶けて、消えた。

 和馬は、ひとり、冷えたアスファルトの上に立ち尽くした。  胸の内側で、開けていない封筒と、盗み出したばかりのノートが、二つ並んで、かすかに重かった。

 最上階の、滑稽な灯り。  その、もっと奥の暗がりで、微動だにせず座っていた、川上という男の目を、和馬は思い出していた。

 明日になれば、あの目が、こちらを向く。

(第2話 了)

 

音声解説

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次話予告――第3話「潜入者」。封筒の中身が、和馬を、ただの新人職員ではいられなくする。盗み出した議事録の数字を、原沢が解いた時――『財政非常事態』という、街じゅうが信じた嘘の、底が抜ける。

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著者

野口 和彦

野口 和彦

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飯能市

肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
党派・会派 無所属
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