2026/5/2
私の大々叔父様である平野三郎元岐阜県知事は、かつて「自然と林業」という随想の中で、こう述べています。
自然保護が叫ばれるあまり、本当の自然が見失われるおそれがある。
山の木を切ることを、ただちに自然破壊だと考えるのは、林業を知らない議論である。
森林は、適当に伐採し、枝打ちをし、間伐してこそ良くなる。
ただ、平野三郎氏がこの文章を書いた時代と、私たちが生きている時代では、森林をめぐる状況も大きく変わっています。
かつて植えられたスギやヒノキなどの針葉樹は、今まさに伐採の適齢期を迎えています。
しかし現実には、十分に伐採されず、山に放置されている森林も少なくありません。
では、針葉樹を植えれば正解なのか。
広葉樹を残せば正解なのか。
自然のままに任せるのが正解なのか。
人間が手を入れるのが正解なのか。
正直に言えば、簡単な答えはありません。
針葉樹だけでもだめ。
広葉樹だけでもだめ。
自然のままの森林も必要。
人間が管理する森林も必要。
では、そもそもなぜ人間が森林を管理する必要があるのでしょうか。
私たちは木を使います。
家を建て、道具を作り、紙を使い、エネルギーとしても利用してきました。
森林から資源を受け取って生きています。
だとすれば、森林を守ることは、森林資源を使う人間が支払うべき「対価」なのかもしれません。
しかし、そう考えた瞬間に、ふと疑問も湧きます。
森林と人間を、そもそも対立するものとして考えてよいのでしょうか。
森林は自然。
人間は利用者。
自然を守る側と、自然を壊す側。
そう単純に分けてしまってよいのか。
本来、人間も地球の構成員です。
人間もまた、自然の外側にいる存在ではなく、自然の一部です。
ただし、ここで綺麗ごとだけを言っても意味がありません。
環境を守ろう。
森林を大切にしよう。
未来の地球を考えよう。
もちろん、それは大切です。
しかし、私たちは日々、目の前の生活を優先して生きています。
自分の仕事、自分の家族、自分の暮らし、自分の利益。
そこから完全に自由になることはできません。
それは悪いことではなく、人間という動物の生存本能です。
私はいつも思います。
私たちは、人間という動物を超えられない。
高井会計に勤めていた20代では、京セラフィロソフィーを徹底的に勉強し、自利利他の精神の大切さを学びました。
自分の利益だけでなく、他者の利益も考える。
これは本当に大切な考え方です。
しかし同時に、自我や本能に目を背けてはいけないとも思います。
人間には、自分を守りたい本能があります。
自分の家族を守りたい本能があります。
損をしたくないという感情があります。
便利に暮らしたいという欲求があります。
この現実を無視して、環境論や森林政策を語っても、人の心には届かないのではないでしょうか。
大切なのは、まず自分の心に手を当てることです。
森林問題は、山だけの問題ではありません。
それは、人間が自分の本能とどう向き合うかという問題です。
平野三郎元岐阜県知事は、林業の振興と自然保護は、本来対立するものではないと述べました。
私は、きれいごとだけで自然を語るのではなく、
生身の人間として、本能を直視した上で、森林と向き合いたいと思っています。
森林問題は、専門家だけの話ではありません。
私たち一人ひとりの生活の選択そのものです。
だからこそ
まずは自分の本能を知ること。
その上で、どう生きるかを選ぶこと。
それが、これからの森林と人間の関係をつくる第一歩ではないでしょうか。
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イワデ カズヤ/36歳/男
ホーム>政党・政治家>岩出 かずや (イワデ カズヤ)>森は守るものか、使うものか。 ―平野三郎元岐阜県知事の言葉から考えるー