2026/5/16
高校国語の科目再編についての記事を読み、私は大いに賛成しました。
2032年度以降に実施予定の次期学習指導要領で、文部科学省は現在の「論理国語」「文学国語」などの科目構成を見直し、評論や小説など多様な題材に触れられる形へ再編する方針を示したとのことです。
そもそも、現代文を「論理」と「文学」に分けること自体に、私は以前から無理があるのではないかと感じていました。
もちろん、論理的に読む力、書く力、説明する力は大切です。社会に出れば、報告書、企画書、議事録、条例、予算説明、あらゆる場面で論理は必要になります。
しかし、言葉は単なる情報伝達の道具ではありません。
人は言葉によって考え、言葉によって悩み、言葉によって励まされ、時には言葉によって人生の向きを変えることさえあります。そこには、論理だけでは測れない感情や余韻、沈黙や行間があります。
高校時代に文学に触れる意味は、そこにあるのだと思います。
小説を読むことは、他者の人生を一度引き受けてみることです。自分とは違う時代、違う立場、違う苦しみ、違う喜びを、言葉を通して体験することです。それは、単に国語の点数を上げるための勉強ではなく、人間を理解するための訓練でもあります。
今回の見直しは、そうした教育の原点に立ち返るものとして、歓迎したいと思います。
特に印象的だったのは、現行の科目構成では「文学国語」を選択する生徒が思ったほど多くなく、理系志望の生徒を中心に文学に触れる機会が減っていたという点です。
これは、ある意味では予想されたことだったのではないでしょうか。
大学入試や進路選択を考えれば、生徒も学校も、どうしても「入試に出る科目」「実用的に見える科目」を優先します。その結果、文学が後回しにされる。そうなることは、最初から十分に考えられたはずです。
当初から批判の強かった改革を、なぜ文部科学省は強行したのか。その疑問は残ります。
ただ、ここで大切なのは、単に「文学を復活させればよい」という話ではないと思います。
論理と文学は、本来対立するものではありません。
優れた評論には、論理があります。しかし同時に、そこには文章としての美しさや迫力があります。私は評論というものを、ひとつの文学にまで昇華させた小林秀雄を尊敬しています。
小林秀雄の文章には、単なる説明を超えた力があります。読んでいると、論理を追っているはずなのに、いつの間にか言葉そのものの響きや、思考の緊張感に引き込まれていく。評論でありながら、文学でもある。そこに私は大きな魅力を感じます。
考えてみれば、議会一般質問も本来は、単なる行政への質問にとどまるものではないのかもしれません。
もちろん、議会質問は政策を問う場です。事実を確認し、課題を示し、行政の方針をただす。そこには当然、論理性と正確性が求められます。
しかし、それだけでは傍聴者の心には届きません。
なぜその問題を取り上げるのか。そこにどんな市民の暮らしがあるのか。どんな不安があり、どんな未来を描こうとしているのか。言葉に温度がなければ、政策は単なる項目の羅列になってしまいます。
私は密かに、議会一般質問も文学に昇華できないものかと思っています。
もちろん、議場で小説を書くわけではありません。美辞麗句を並べるという意味でもありません。現場の声、暮らしの実感、制度の矛盾、未来への希望を、論理と感性の両方で言葉にするということです。
もし議会質問が、聞いている人の心に少しでも残る言葉になれば、読者ならぬ傍聴者も増えるかもしれません。
AIの時代だからこそ、なおさら人間の言葉が問われています。
今は、長い文章を読むのが面倒だからAIに要約させる、短い動画でわかった気になる、そんな時代でもあります。もちろん、AIは便利です。私も大いに活用しています。
けれども、要約された言葉だけでは、こぼれ落ちるものがあります。
遠回りして読むこと。自分の頭で考えること。すぐには答えの出ない文章と向き合うこと。そうした時間の中でしか育たない力があるはずです。
文学とは、すぐに役立つものではないかもしれません。
しかし、すぐに役立つものだけで人は育つのか。効率だけで人生は豊かになるのか。そこを問い直すことこそ、教育にとって大切なのだと思います。
論理と文学を分けるのではなく、論理の中に文学を、文学の中に論理を見いだす。
高校国語の再編が、そんな学びの回復につながることを期待したいと思います。
そして私自身も、議会の場で、単なる質問を超えて、市民の暮らしと未来に届く言葉を紡げるよう努めていきたい。
いつか一般質問を、少しだけでも文学に近づけることができたなら。
その時は、議場にも、もう少し多くの「読者」が来てくださるかもしれません。
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