2023/7/19
皆さまこんにちは!
立憲民主党 泉区政策委員 ごとう咲子です。
私は現在、立憲民主党の一員として、政治活動に取り組んでいます。
そもそもなぜ政治の世界に足を踏み入れたのか、そのきっかけについてこの記事では取り上げます。
最も大きなきっかけ:東日本大震災、そして福島第一原発事故
ごとう咲子は2011年2月1日、夫の転勤で仙台・泉中央に引っ越してきました。
当時息子は2歳半。
これまでの仕事をやめる事になったので、その代わり第二子を仙台で授かれたらいいね、などと考えていました。
2011年3月11日、15時からのアポイントのために自宅マンションを出て信号待ちをしている時に大きな揺れに襲われました。
本来の避難所である七北田公園の緑化ホールは天井が落ちて使えないから、七北田小学校に行きなさいと言われたものの、それがどこにあるのかすら分からないほど土地勘がない私たち親子。地域の方が出して下さったトラックに載せてもらい、なんとかたどり着く事ができました。
七北田小学校の体育館で一緒になった学生さん達、妊婦さん、おばあちゃん…知らない同士で小さなグループを作り、お布団に入れてもらったり、我が家の非常持ち出し袋の中身をみんなでシェアしたり、協力しあったのを覚えています。本当に地域の方々によくしていただきました。
しかし、その時には福島第一原発で事故が進行していました。
当時は停電していて、リアルタイムの報道を見ていません。その為、私はおろかにもチェルノブイリよりはましだろうと思っていました。息子を連れて長時間買い出しに並んだ日、今まで経験した事のない顔のひりつきを感じました。そして、その日の夜中には息子が急に鼻血を出しました。これまでも鼻血を出したことはありましたが、その日はのぼせた様子もないのに大量の出血があり、なんだろうと疑問に思った記憶があります。
すでに停電から復帰し、携帯への充電ができるようになって、次々と原発が爆発している事をニュースサイトで見ていた私は何基もの原子炉が危機的状況に陥っていると知り、この避難所にいてもいいのかどうなのか迷っていました。
そんな時、ラジオからこんな声が聞こえました。
「建屋の中はチェルノブイリ事故の時より高い放射線量です」
「もう日本は終わりです」
(このラジオ放送、覚えておられる方いらっしゃいませんか?)
それを聞いて、反射的に自宅へ戻ることを決めました。
避難所はすべての扉が開け放たれていて、放射線防御にはおよそ向かない場所だったからです。
とにかく息子の命を守らなければと必死でした。
息子を避難させたいと夫に言った時、そんなことはできないと言われました。
夫は病院の検査機器の修理を担当するフィールドエンジニアで、すでに気仙沼などの被災地域に駆け付けており、仙台に残って支えてほしいと言われました。私も同様の仕事をしていましたので、夫の仕事の必要性は十分わかっています。ただ、妻として、母として、人としてどうするべきなのか?という思いに引き裂かれて、文字通りパニックに陥りました。
実は、すでに他の同僚の方々はご家族を避難させている事がわかり、私たち親子も40日間、私の実家に避難する事になりました。必死に確保した航空券で、山形空港から羽田空港に降り立った時、煌々と明かりが灯り、まるでなにもなかったかのような街の姿をみて、だれも悪くないのに打ちのめされたような気持になりました。
実家に身を寄せた後、体調が悪く、なかなか起き上がれない日々が続きました。
いつもならじっとしていない息子も横になっている事が多かったです。
実家では気にしすぎ、家に閉じこもっている事の方が身体に悪いと言われ、避難してはいけなかったのかという思いに苛まれました。
そんな時、Twitterで渋谷で脱原発のデモがあると見かけ、自分も参加したいという思いに駆られました。
ただ実家で世話になっている以上、両親にもどこにいくのか話す必要があろうと思って説明した所、そんなものには参加するな、過激派の類がいるような所で、おかしな組織に引き入れられるぞと強く反対されました。
それでもいてもたってもいられず、息子を連れて家を出ました。
センター街の真ん中で、知らない人たちを前に「原発いらない」と何度も叫んだとき、自分は今まで意見をいえない方の人間ではないと思っていたけれど、心から訴えたのはこれが初めてだと、強烈に思いました。
その後、仙台に戻り、Twitterで知り合った方々と放射能汚染問題に対応するためのグループに加わります。
そのメンバーから「生協あいコープみやぎは放射性物質の測定をした食材を扱っている」と聞き、生協活動にも加わっていく事となります。
現・脱原発・エネルギーシフト委員会(当時の子どもたちの未来を守るために脱原発を進める委員会)での学びで、実は原発推進は国策として進められている事を初めて知りました。それまで私は、市場原理の中で自然と原発が利用されるようになってきたのだと思っていたのです。
https://www.fepc.or.jp/nuclear/policy/houritsu/kihonhou/index.html
一度事故を起こせば、こんなにもひどい汚染をひき起こし、多くの方々の人生を左右するリスクを抱えながら、国がそれを推進していたなんて、衝撃でした。被曝を防ぐには発生源である原発を無くすしかない、でも国が相手なんて、自分たち一介の市民にはどうにもできないのではないかという思いにとらわれました。
本当に原発をどうにかしたいなら、政治は無視できない。
この体験が、私が最も政治に関わることを意識した、最も大きなきっかけです。
この記事をシェアする
ゴトウ サキコ/46歳/女
ホーム>政党・政治家>ごとう 咲子 (ゴトウ サキコ)>【仙台市泉区】ごとう咲子はなぜ政治の世界に足を踏み入れたのか①