2026/5/12
2024年7月に提起した裁判が、ようやく一区切りを迎えました。開示請求の段階から数えれば、2年以上にわたる手続きでした。
思っていた以上に長い時間がかかりました。発信そのものよりも、その後に続く手続きの方が重いと感じる場面も少なくありませんでした。
本件は、お金のための裁判ではありません。時間や費用、精神的な負担を考えれば、決して割に合うものではないと思います。
それでも、この問題を個人の問題として受け止めるだけでよいのかという思いがあり、裁判を提起しました。
今回、私が原告として提起していた裁判について、被告に対する損害賠償の支払いが命じられました。
主文では、被告に対し35万円および遅延損害金の支払いが命じられています。さらに本件判決には仮執行宣言が付されており、判決確定前であっても執行が可能とされています。
2024年7月の提訴から約2年弱、さらに開示請求の段階から数えると2年以上にわたる手続きでしたが、最終的に裁判所が、被告の一連の投稿について違法性を認めたことになります。
すべての主張が認められたわけではなく、一部については名誉毀損とまではいえないと判断されました。そのため、判決としてはいわゆる一部認容という形になります。
ただ、その上で裁判所は、被告の投稿について、人格を否定する侮辱的表現が繰り返されていた点などを踏まえ、社会通念上許容される限度を超えた侮辱行為であり、不法行為にあたると認定しました。
結果として、私が受けた精神的苦痛についても認められ、損害賠償が命じられています。
今回の相手方は、いわゆる保守系言論人を批判する内容のブログを運営する立場にあり、継続的に発信を行っていました。
また、相手方代理人は 神原元 弁護士であり、「しばき隊」初期メンバーとしても知られている人物です。
こうした背景もあり、本件は単なる個人間の紛争というより、言論空間のあり方が問われる側面も持っていました。
判決ではさらに
・侮辱的な表現が繰り返されていること
・読者の関心を引くための強調的な表現手法が用いられていること
・人格そのものを否定する内容であること
といった点が総合的に評価されています。
単なる一度の発言ではなく、継続的に人格を貶める形で表現が用いられていたことが、違法性の判断において重く見られています。
また、「相手が発信しているのだから反論しただけだ」という主張についても、正当化は認められていません。
発信があるからといって、どのような言葉でも許されるわけではない。この点は、明確に線引きされた部分だと思います。
今回の判決で印象的だったのは、表現の内容そのものに対する評価の踏み込み方でした。
裁判所は、被告の投稿について、
「被告の受け止めを前提とする一方的な見解に依拠し、稚拙な文言で原告の知性に対する否定的な内容の主観的評価」
であると認定しています。
ここでは、単に「強い表現である」といった評価にとどまらず、
・客観的な論評ではないこと
・一方的な見解に依拠していること
・人格、とりわけ知性に向けられていること
まで、明確に指摘されています。
つまり、政策や意見に対する批判ではなく、主観的で一方的な人格評価にとどまるものと判断されたということです。
一方で、すべてが名誉毀損と認められたわけではありません。
社会的評価を具体的に低下させるとまではいえない部分については、名誉毀損の成立は否定されています。この点は、判断として一定の慎重さがある部分でもあります。
ただし、それでもなお、人格そのものに向けられた表現については、侮辱として違法性が認められました。
ここに、今回の判決の整理があります。
政治的な批判は広く許されるが、人格を否定する表現は別である。
政治家である以上、批判にさらされることは避けられませんし、それ自体は当然のことだと思っています。
私自身も、政策や考え方に対する批判は自由に行われるべきだと考えています。
ただ、今回問題となったのは、その範囲を明らかに超えたものでした。
一度きりではなく、繰り返される侮辱。
内容ではなく人格そのものを否定する言葉。
それに対して、個人として受け止め続けるだけでよいのか。少し考える時間を置いた上で、これは一度、司法の判断を仰ぐべき問題ではないかと思うようになりました。
結果として、原告として訴えを提起し、その一部ではありますが、違法性が認められるに至りました。
ここまで書いてきましたが、今回の裁判は、単に一つの投稿の違法性が認められた、というだけの話ではないと思っています。
私は無所属という立場で、特別な後ろ盾もなく20代から政治に挑戦してきました。多くの方に支えていただいた一方で、現実には強い言葉や、時に行き過ぎた表現にさらされることもありました。
選挙の直前には殺害予告も受けました。
その中で、どこまでを受け止めるべきなのか、正直に言えば迷いもありました。政治家である以上、批判は受けるべきだと思っていますし、それは今も変わりません。
ただ、今回のように、人格そのものを否定する表現が繰り返される状況を前にして、それもすべて「仕方がない」として引き受けるべきなのか。そこにはどうしても違和感が残りました。
意見が違う相手であれば、どこまでも個人を攻撃してよいのか。
それが許される空間の中で、これから政治に挑戦しようとする人が安心して一歩を踏み出せるのか。
私は、そうは思いませんでした。
誰であっても、特別な経歴や後ろ盾がなくても、信念を持って挑戦できる社会であってほしい。
その前提として、議論が議論として成立する環境が必要だと思っています。
今回の判決は、批判と人格攻撃のあいだに、ひとつの線を引いたものです。
大きな変化ではないかもしれません。ただ、こうした判断が積み重なっていくことで、言論のあり方は少しずつ整っていくのではないかとも感じています。
これからも、是々非々で発信を続けていきます。異なる意見とも向き合いながら、建設的な議論ができる社会を目指していきたいと思います。
なお、判決文については、相手方が閲覧制限の申立てを行っているため、公開にあたっては個人情報部分を墨消しした上で掲載します。
その上で、今回あらためて感じたのは、発信のあり方そのものについてです。
匿名という立場は、本来、自由な言論を支える側面もあります。一方で、責任の所在が見えにくくなることで、表現が過度に一方的になりやすいという側面もあると思います。
今回の件では、裁判所も指摘しているように、被告の投稿は、客観的な論評というよりも、一方的な見解に依拠した主観的な人格評価にとどまるものでした。
自らは匿名という立場にとどまりながら、特定の個人に対して繰り返し強い言葉を向ける。その構図には、やはり違和感があります。意見や立場が異なること自体は当然にあり得ますし、それに対する批判もまた自由であるべきです。
ただ、その方法として、人格そのものを否定するような形が許されるのか。
そして、それが匿名という環境の中で繰り返されることが、健全な言論と言えるのか。今回の裁判を通じて、その点についても改めて考えさせられました。
本件において代理人としてご尽力いただいた、弁護士の伊藤たける先生に、心より感謝申し上げます。
困難な論点を含む案件であったにもかかわらず、終始冷静かつ的確なご対応により、私の主張を丁寧に積み上げ、裁判所に届けてくださいました。その誠実なお仕事ぶりと高い専門性に、深い信頼と敬意を抱いております。
本件の結果は、単なる一事案にとどまらず、言論空間の健全性や、公の立場にある者への不当な攻撃に対する一定の歯止めとしての意義も有していると感じております。そうした重要な局面においてお力添えいただきましたこと、改めて御礼申し上げます。
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