2026/3/15
先日、動画をアップしました。
3・11の時に私が体験したことや考えたことの、ほんの一部ですが、文章にまとめました。
福島をはじめ東北など甚大な被害を受けた地域では、私の体験とは比べ物にならない大変な思いをした方がたくさんおられると思います。改めて、お見舞いを申し上げます(…こんなありきたりの言葉は、本当は虚しいのですが…気の利いた言葉が思い浮かばず、すみません)。
大地震と津波だけでもとてつもない災害だったのに、その上原発の過酷事故が起こり、複雑で深刻な状態になってしまいました。もう、あんな思いは二度としたくありません。誰にもさせたくありません。
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2011年3月11日午後2時46分東日本大震災発災。令和6年時点の死者は19,775人、行方不明者は2,550人。避難者は27,615人です。あの日、あの時、あなたは何をしていましたか?
あの日は大きな揺れのあと、大津波が沿岸を襲いました。連日、テレビでは津波の映像が流されていました。
津波の影響で電源を失った福島原発が爆発しました。地震大国:日本の原発がとうとう過酷事故を起こしたのです。放射能汚染さえなければ助かったかもしれない命もたくさんあったそうです。
松戸市も放射能汚染のホットスポットになっていたことが発覚しました。通常の10倍もの汚染でした。それから「家族の健康をどう守れば良いのか?」を考えるのが、私にとって一番大事な日常になりました。食べても大丈夫か。飲んでも大丈夫か。毎日毎日、買い物のたび、生協の注文のたび、産地をチェックする日々でした。食材はとにかく西日本で採れたものを求めました。汚染されていないであろう、と思われるものを。
子どもたちにはマスクを付けさせました。マイクロシーベルト、ベクレル、そんな放射性物質の単位などを一生懸命に学び覚えました。原発事故で一番最初に襲ってくるのが“放射性ヨウ素”で、安定ヨウ素剤がない場合は“海草”が良いらしい。味噌汁等には必ずとろろ昆布やワカメを入れるようにしました。できることは何でもやりたかった。
物流が止まり、食材が入手しづらくなりました。ガソリンの供給が減ると聞き、車のガソリンを満タンにしました。
お彼岸に、ガソリンが無くなるまで移動しようと甲府を目指しました。途中のコンビニの棚は空っぽ。ガソリンスタンド前には何台もの車が並んで待っていました。山を越えて山梨県に入ると、それまでの世界がウソのように、スーパーにもコンビニにも商品があふれていました。
SNSでは「心配しすぎ」「神経質な母親」果ては「こいつ中国人じゃね?」そんな批判を受けました。
でも私は思います。心配する母親が悪いのではなく、こんな心配をさせる社会の方がおかしいのだ、と。被ばくしても全く問題がないのならどうして“基準”を設けるのですか?自から望んでもいない被ばくを、しかも大事な我が子にさせられたのです。私たち市民は、もっと怒って良いと思いました。ただちに影響は無くても、のちに影響しない保証は無いでしょう?
ロシア(当時のソ連)のチェルノブイリ原発事故の後、大勢の子どもたちが甲状腺がんを患いました。福島の子どもたちにも大勢見つかっていますが、チェルノブイリ事故で認められた、原発事故との因果関係が日本では認められていません。その子どもたち本人やご家族は、どんなに悔しいことでしょうか。
そして今、福島県の浪江駅周辺では「復興祈念公園」の構想が持ち上がり、大掛かりな開発が進められています。どこまでいっても金儲け?浅ましさを見るような思いです。
あの福島原発事故から15年経ち、国のエネルギー政策は、原発再稼働と新設を検討するところに逆戻りしてしまいました。世界中が「原子力発電所は費用対効果が悪すぎて儲からない」と見切っているのに、です。
原発事故から15年。
あの時の思いをもう二度としたくありません。誰にもさせたくありません。
私は原発のない社会を求めます。
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ホーム>政党・政治家>増田 かおる (マスダ カオル)>3・11から15年を機に〜あの日、あの時、あなたは何をしていましたか?〜