2026/2/27
— 村上ゆかり (@yukarimurakami5) 2026年2月27日
Xで記事を書きました。
AV産業にとって最も恐ろしいのは、実態が見えなくなることです。
よろしければご覧ください。
▼本文転記
買春罰則化の「不都合な真実」 アングラ化が招く構造的暴力
パリ郊外の深い森。街灯の光さえ届かない場所で、アネは助手席に深く沈み込み、震える指先を隠した。隣に座る男からは、酒とひどく攻撃的な汗の臭いが漂っている。
かつての彼女なら、窓を開けた瞬間に断っていたはずの、生理的な嫌悪感を催させる相手だ。
それなのに、なぜ私はこの車に乗ってしまったのか。
「性労働者の尊厳を守る」 テレビの向こう側で、スーツを着た政治家たちが晴れやかな顔でそう宣言したとき、アネはそれが自分と息子への処刑宣告になるとは夢にも思わなかった。
2016年の春、買春を処罰する法改正が行われた。その一見正しい法改正が、皮肉にも性労働者の取引のパワーバランスを決定的に破壊してしまった。客は警察の摘発を異常なまでに恐れ、路上で車を止めることを拒んだからだ。かつて、彼女が客を見定めていた時間は、今や警察から逃げるための「制限時間」にすり替わった。
「早くしろ! 捕まったら俺の人生は終わりだ!」
半開きになった窓から投げつけられる焦燥の怒号。アネは一瞬、ためらう。この男の目は、かつて自分が「NO」と言って拒絶した男と同じだ。嫌な予感が背筋を走る。
だが、そのとき脳裏をよぎるのは、明日の朝、息子の朝食に並べるはずの牛乳と卵の代金だ。
「……わかったわ」
彼女は自ら、その「檻」の中に足を踏み入れてしまった。
アネは知っていた。誰もいない暗闇へ行くことが、どれほど自分を無防備にするか。しかし、買い手が減って経済的に追い詰められた彼女には、かつてのように「NO」と言って背を向ける選択肢は、もうどこにも残されていなかった。
そして、最悪の夜が訪れる。
森の湿った土の上で、アネは一人、体を引きずりながら立ち上がった。暴力を振るわれ、売上を奪われた彼女の指が、警察への通報ボタンを叩くことはなかった。
もし通報すれば、彼女は暴力から救われるかもしれない。しかし引き換えに、家宅捜索で住処を追われ、あるいは「犯罪に関わる親」として、最愛の息子の親権さえ奪われてしまうかもしれない――。
アネの物語は、複数の調査報告に基づいて再構成した一例であり、すべての当事者を代表するものではない。しかし、法改正後に増加したリスクを象徴的に示す事例でもある。2016年にフランスで施行された「買春処罰法」のその後を追った、世界の医療団(Médecins du Monde)等の公的機関や支援団体による膨大な調査レポートには、様々な実話が報告されている。
買春処罰法を評価する声も存在する。支持者は、「需要を減らすことで搾取構造を断つ」「人身売買を抑制する」「路上売春を減少させた」と主張してきた。実際、一部地域では、表面的な街頭売春の減少が報告されている。しかし一方で、「アングラ化」という現象を訴える人が少なくない事実も見過ごせない。
なぜ、女性を救うはずの法律が、彼女たちをさらなる窮地へと追い込んだのか。そこには「アングラ化」という名の、残酷なまでに合理的なメカニズムが働いている。
「アングラ化」とは、単に取引の場所が路地裏に移動することを指すのではない。それは、社会の監視の目と、当事者の防衛手段が、同時に失われてしまうということを意味している。具体的には、以下の3つの連鎖によって進行する。
1 物理的遮断(密室化)
買う側が摘発を恐れ、人目のある街灯の下を避け、叫び声も届かない郊外の森や、施錠された密室、あるいは身元を隠せるSNSのDM(ダイレクトメッセージ)へと逃げ込む。これにより、万が一の際の救助が物理的に不可能になる。
2 情報の遮断(ブラックリストの消滅)
「この客は危ない」という情報は、かつては現場のコミュニティで共有される唯一の防具だった。しかし、客が「影」へと潜り、やり取りがクローズドになることで、危険な客の情報が共有されなくなり、すべての女性が「一か八かの賭け」を強いられるようになる。
3 交渉力の喪失(パワーバランスの崩壊)
罰則があることで、客は「自分がリスクを負っている」という優位性を盾に、無理な要求や値下げを強いるようになる。アングラ化が進むほど、売る側は経済的に困窮し、本来なら断るはずのハイリスクな取引(避妊具の不使用など)を拒否できなくなる。
アングラ化とは「正義の監視」から逃れると同時に、「安全のためのルール」さえも機能しない無秩序な闇へと、当事者を突き落とすプロセスのことである。
この構造の変化がもたらす因果関係は、数字にも示されている。
2018年に発表された調査レポート(Loi de 2016 : une réforme qui précarise les travailleur·se·s du sexe)によれば、法改正後、性労働者の実に42%が「以前よりも暴力被害が増えた」と回答し、70%以上が「客との交渉において、以前よりも安全確認(コンドームの使用など)を求めることが難しくなった」と証言している。最新である2024年の報告でも、暴力被害の報告数は前年比で6%増加するなど、悪化の傾向は止まっていない。これらの調査を行ったMdM(世界の医療団)は当事者の支援団体であり、回答者の多くが支援を必要とする層に偏っているという特性はある。しかし、アングラ化が進むほど実態把握が困難になる中で、この数字は数少ない、しかし確実に現場から上がっている「悲鳴」の記録であることに変わりはない。
性産業は、罰則を強化すれば自然に縮小するような「弾力性の高い市場」ではない。需要は性欲や孤独といった代替しにくい動機に支えられ、供給も貧困や家庭環境などの構造的制約と結びついている。そのため、リスクや処罰を重くしても取引そのものは消えにくく、多くの場合、減少ではなく地下化と危険化を招く。刑罰によって市場を消滅させようとする発想自体が、現実の構造を踏まえない非現実的な政策なのである。
つまり、「買う側を罰して需要を断てば、彼女たちは救済され、他の仕事へ移るだろう」という理屈は、あまりに現場を知らない机上の空論だ。現実には、自らの意志でこの仕事を選択している女性もいれば、学歴や年齢、家庭環境といった構造的な制約から「ここ以外に生きる場所がない」女性も数多く存在する。
現に、フランスの法律施行後の調査(Médecins du Monde 2018)では、衝撃的な事実が明らかになっている。法改正によって客足が遠のき、労働環境が極限まで悪化したにもかかわらず、大多数の女性たちが性労働を辞めなかった。
日本において現在検討されている買春の罰則化も、制度設計や運用次第では、同様の問題が再現される可能性は否定できない。そうなれば、すでに限界まで追い詰められている日本の性労働者たちが、さらなる地獄へと突き落とされる恐れがある。
最も深刻なのは、アングラ化が進むことで「実態が統計に現れにくくなる」という構造である。
路上取引が減れば、表面上の件数は減少する。しかし、それは必ずしも被害の減少を意味しない。密室化・オンライン化が進むほど、暴力や強要は外部から観測されにくくなる。
通報率が下がれば、警察統計は改善して見える。だが、それは「安全になった」のではなく、「測れなくなった」可能性は排除できない。アングラ化は、被害そのものだけでなく、被害の可視性を奪う。
フランスの買春処罰法については、2024年、欧州人権裁判所が人権条約違反には当たらないとの判断を示している。これは、同裁判所が各国に広い裁量を認めたというもので、制度の有効性そのものを保証したわけではない。また、継続的な検証の必要性も同時に強調されている。「合法だから正しい」「合憲だから成功している」という評価は成り立たないのである。
制度の一部に抑止効果があった可能性を完全に否定することはできない。しかし、アングラ化によって実態把握が困難になった以上、性産業の実態が「わからなくなった」というのが正解に近い。わからなくなることこそ、性労働者たちを最も過酷な環境に置くことになる。
「搾取を許さない」という正義感。その動機が正しくとも、結果が「現場の安全」を破壊するものであれば、それは救済ではなく、新たな、そしてより凶悪な搾取の構造を作り出す共犯者となる。そうならないためには、フランスの事例を参考にしながら、支援体制の違い、経済的困窮層の多さなどの日本の実態とも照らし合わせ、現場の声を十分に聴取した制度設計が不可欠だ。
日本が今、選ぼうとしている道が、彼女たちを暗闇に突き落とすためのものではないことを、私たちは厳しく監視し、問い続けなければならない。
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